同じ気持ち(かもしれない)

多和田葉子犬婿入り講談社
犬婿入り」に圧倒される。何なんだ、これは!というくらい。面白すぎ。うう、この面白さをどんな風に説明したらよいものか。
ところで、表題作のほかに「ペルソナ」という作品も載っている。その中の一節を引用してみる。

道子さんは何を研究なさっているの、と尋ねる日本人は滅多にというよりも、これまでひとりもいなかった。道子は、ドイツに住みドイツ語で小説を書いているトルコ人の女性作家たちについて論文を書いているのだった。<書いている>という現在進行形で、もう長いこと書いているのだった。<書こうとしているんですが>とか、<書きたいとおもっているんですが>という言い方をすることもあった。書きたいと思いながら書けないことが多過ぎるのだった。小説を開いて読み、それについて書きたいと思って読み、読んでいくうちに何か暗い予感のようなものが、道子の本を抑える両手の指にからみついてきて、道子を下へ下へと引っ張っていくのだった。下の方では、形のない冷たく湿ったからだのようなものが蠢いていた。道子は、その仲間入りをしたくないのだった。したくはないけれども、小説を読んでいると下へ下へと引きずられていって、論文を書くどころの話ではなくなってしまうのだった。そんな時、道子は部屋の隅にうずくまって額を自分自身の膝に押しつけ、そのまま何時間もじっとしていた。和男が入って来ないようにと願いながら、そのままじっとしているのだった。このまま何も書かないうちに日本へ帰るのかと思うと耐えられなくなってまた机に向かうこともあった。机に向かって一晩中座っていることもあった。それでも論文は書けないのだった。(p.61-62)

ああ、そうそう、こんな感じだなあと納得。論文の書けない気持ちって、よく分かる。文章を書く、特に書き始めるというのは恐ろしいことだ。具体的に何が恐ろしいのかは分からないけど、漠然として不安に襲われる。強いて言えば、「何も書けないのではないか」という不安だろうか。?
ところで、書くことには、机に向かってただ座っていることも含まれるのではないか、と思う。
たとえば、『<不良>のための文章術』のなかで、永江朗保坂和志の日常のことを紹介している。
それによると、保坂和志は、昼過ぎから日没まで仕事をするという。だいたい4、5時間ほど机に向かうことになるのだけど、その間のだいたい2時間から2時間半は、机の前でじっとしているそうだ。

毎日それだけの時間を、保坂和志さんはじっと机の前で待っています。まさに待っているという言い方がふさわしい。机に向かったときは、何も書けそうになく感じられていたとしても、二時間を過ぎれば、書くべきことがだんだん分かってくるのだそうです。(p.35)

私などは、「待つ」ということが耐えられなくて、つい締め切り間際にささっと書き始めてしまう。それで、いつも失敗ばかりの論文しか書けない。不安に耐えて、ひたすら「待つ」ということをしないといけないなあと思う。