困ったときの「一言」
ネット上での議論を見ていると、一つの決まり文句があることに気がつく。
「○○と一括りするな!」というものである。
たとえば、最近でも亀井秀雄氏のサイトを読んでいたら、宮台批判がなされていて、そのなかで「随分無神経に「日本人」を一括りに扱っているじゃないか」と述べ批判をしていた。*1
たしかに、たとえば「おたく」とか「女性」とか「日本人」というものをテーマにして議論をするときには、しばしば指摘されるように、この内部での個別性も配慮するということは必要だ。「女性」といっても、様々な立場があるし、それぞれ個別的な事情を抱えている。だから、そうした差異を切り捨てて、「女は○○だ!」と考えたり発言することは、思考停止を招きかねない。
そうしたことを踏まえたうえで、それでもこの「○○と一括りにするな」という反論の言葉の使い方は少し考えなくてはいけないのではと感じる。「逃げ」の言葉として、あまりにも簡単に用いてはいないだろうか。本当にその言葉が有効な反論となるのか、よく考えて発しているのだろうか。
というのは、私は学問というのは、個別性にも配慮しながらもある程度の一般化や理論化する作業も必要なはずだ*2と思うからである。ただ、個別的な事情だけを研究対象として、その考察結果はつねに特別な場合のみしか当てはまらないというのでは、いったいなんのための研究なのか。研究者個人だけが、満足すればよいのか。
人間の認識には限界があるし、クワインなどはある特定の「概念枠」からしか認識はできないという議論もしている。すべての現象を取り出して、帰納するということは不可能だ。だから、どうしても、一般化や理論化を行った場合、そこから漏れてしまう個別性がある。それを見逃せ、と私は言いたいのではない。漏れてしまったものをお互い指摘しながら、議論を進めていくということが重要なのではないかと、私は思う。
だけど、そうではないようなのだ。とにかく、自分の主張や考えに反論がなされた時、それに有効な反論ができないとなると、最後の手段として「私を○○と一括りするな」と言うらしい。この言葉は使い方によっては、マジックワードとして働いてしまうのではないか。この言葉を言われてしまうと、それ以上の議論ができなくなってしまう。「私は他の人とは違うから」と言ってしまえば、誰でもそうなのだから、これ以上踏み込むことが出来ない。あとは全部、個人の事情に還元し、それ以上は他者には理解できないだろう、という議論だ。
まだ、私にはこれ以上の解決策が思いつかないのだが、個別性だけの学問というのはあり得るのだろうか?やっぱり、学問というのはその性格上、個別性から出発してある程度の一般化なり理論なりを提示しなくては、次の議論へと繋がっていかないのではないだろうか?もちろん、何度も繰り返すが、乱暴な一般化まで、私は認めているわけではない。しかし、ある特定の条件で生じる特定の事象だけしか当てはまらない研究というのは、やはり不十分な印象を受ける。個別性と一般性をどうやって折り合いをつけるのか?他の研究者は、どう折り合いをつけているのだろう??
*1:とはいうものの、この批判は亀井氏が書いたものとしては、首を傾げざるを得ない乱暴な論の展開ではあった。私は亀井氏を近代文学の研究者として尊敬しているだけに、氏らしくない文章だとショックを受けた。
参照:http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/dojidai/iraq_2_02.html
*2:この考えも偏見なのかもしれない