身近なところから

身近なところから哲学は始まるとよく言われるが、昨今の情報論、データベース論が実は日常生活に深く関わる重要な問題であったのだなと実感する出来事が最近あった。
というのも、今、私が住んでいる市は4月から指定ゴミ袋制(有料制)に変わるのだが、住民登録している世帯のみ指定袋の一定枚数の無料交換券が得られる。だが、住民登録していない人はもらえませんとのこと。だから、買って下さいという。まあ、たしかに住民登録していなければ、住民サービスが受けられないのは当然のことなのだろうが、なんだか釈然としないものが残る。
それは結局、住民登録というデータの登録がここでは問題なのだ。要するに、データを他人に(あるいは国家に)預けなければ、人は人として認めてもらえないのである。極端に言えば、私たちの生きている世界はこういう仕組みになっているのだ。サルトル風に言えば、データは実存に先立つということになるだろうか。もちろん、常識的にはデータはあとからついてくるものであろうが、実は、データと実存の間で、奇妙な倒錯が生じているのではないかと思う。ここから、データの登録からはみ出す存在が問題になるのは当然のことであろう。
「この私とは<私>のことだ」と身体を曝しても、ある場所(たとえば国家)にデータが登録されていなければ、その証言は無効なのである。本人よりもデータのほうが信頼されている世界だといえる。デリダの哲学は、おそらくこの問題について思考するものであったと思う(つまり、そのデータはどうやって信頼するの? というのがデリダの論ではなかったか)。
ウェブ進化論』という本は、データをネットの「あちら側」に置く社会にどちらかというと可能性を見いだす本であった。たとえば、グーグルにデータを渡すことによって、そこから新しい知が生まれる/生まれつつある、ということになるだろう。つまり、データを「あちら側」に投げ入れたとき、はじめてネットは私たちにその可能性を見せてくれるのだが、一方で「あちら側」を信頼できず、データをそこに置くことができない者は、ネットの「知」の恩恵を充分に受けることができないのかもしれない。
データに疎外されるという、なんだか昔なじみのつまらない疎外論になってしまったが、ともかくこのデータ疎外論には功罪の両面があるのはたしかである。一概にデータを否定もできないし、かといってデータを全面的にあるいは盲目的に信用することもできない。データと私たちは、どのように共存すべきなのだろうか。