「孤独」の差異

どうも橋本治が感じている「孤独」と仲俣が理解している「橋本治の孤独」は、全然別のもののように思えてならない。
私は、橋本治の熱心な読者ではないのでよく分からないが、おそらく橋本治の「孤独」とは永井均的な「私」に近いのではないかと思う。(勘違いや誤解であったら申し訳ない。橋本治の著作を読んでいない私は、今はこの点にこれ以上触れられない。)
一方で、仲俣の「孤独」はこれは「自己中心的」と言いかえられるようなもので、これは取るに足らないものだ。つまり自己中だから他者に自分の考えが伝わらないわけで、だから自分は(も?)孤高の評論家だと思っているのかもしれないが、それは仲俣の大きな勘違いだと思う。
仲俣の立場は、茂木健一郎が文学は自分が感じたことを率直に語ればいいのではないかと言っていることに近い。茂木の言うことは間違いではなく、たとえばカルチャースクールのようなところで、文学の愛好者に向かってそのような主張をすることはたいして問題ないだろう。しかし、文学の研究者に向かって、文学研究は自分の感じたことだけ語れなんて主張しても、それを素直に受け取る文学研究者はいないだろう。(そのようなことがたしか茂木の日記に書いてあったと思う。しかし科学者である茂木が、こと文学に関して上記のように語るのは解せない。茂木の科学批判も頷けるところはあるのだが、とはいえ、ではたとえば茂木の専門分野では実験結果や先行する研究を無視して、自分の思ったことだけを主張すれば良いのか。もちろんそんなことが許されるはずもないだろう。それとも、文学なんて「学問」のうちに入らない、いい加減なものだと、茂木は思っているのだろうか?。それは文学研究者を馬鹿にしてはいないか?。)
私が茂木の文学に関する考えや仲俣の評論を信用できないのは、文学作品を読んでそこから自分が感じたことは正しいと素朴に思いこんでいるようだからだ。自分の感じたことが、どこまで妥当なのかどうかを疑う目がない。それゆえに、私は仲俣の評論を自己中心的な評論だと思い、批判し続けている(この考えは私の誤解の可能性もある)。何も「自分の感じたことを語るな」と言いたいわけではない。誰でも、自分がまずはじめに感じたことが思考の出発点になると思う。しかし、評論家と名乗るのであれば、自分の感じたことをそのままたれ流しにしていてはダメだろう。自分の感じたことを一旦は宙吊りにして自分自身を疑ってみるという作業が必要なのではないだろうか。そのために、たとえば文学理論という先達の知恵があるのだから。
今さら「誰でも使える「一般理論」」を構築せよと主張したいわけではない。だが、仲俣のように「一般理論」は使いものにならないからと言って、自己中心的な世界に閉じこもるのは疑問である。「誰でも使える「一般理論」」が幻想であっても、少しでも多くの他者と共有できる「知」の構築を目指そうとする意志までを否定することはできないと思う。そのためにどうすればいいのか、ということをたとえば『限界の思考』あたりで議論していたではないか。
言い方は悪いが、仲俣にしろ茂木にしろ、文学(研究・評論)を舐めていないか。