戦前の阪神間における映画事情

きょうは、宝塚映画祭の特別イベントである「幻のキネマ再発見!〜戦前の阪神間映画事情〜」を見てきた。日本映画史に関心がある人には、貴重なイベントであったと思う。また映画研究家の円尾敏郎氏によるレクチャートークも非常に参考になった。
関東大震災で東京での映画製作が困難になったとき、映画製作は関西のほうへ移ってくるのだが、宝塚の周辺にもいくつか映画製作所ができたという。西宮には、甲陽園という場所があるが、その名前の由来となった甲陽公園に「東亜キネマ」という撮影所ができた。これは、八千代生命保険会社が設立した撮影所とのこと。甲陽公園は、宝塚を意識して作られた当時のレジャーランド。映画撮影もアトラクションの一つだったらしく、大勢の見物客に囲まれながら映画の撮影をしたこともあったらしい。(当時はサイレントだったので、見物客が音を出しても大丈夫だった。)芦屋には「帝国キネマ」が、そして神戸には「本庄映画研究所」なるところが映画製作を行なっている。
また宝塚歌劇小林一三も映画製作に目をつけたらしい。宝塚歌劇団による「キネドラマ」なるものが作られるようになった。「キネドラマ」は映画と演劇を組み合わせたスタイルのものだ。ここは、昭和16年に一旦閉鎖されるが、戦後になって「宝塚映画製作所」として復活して、多くの映画を製作してきたことはよく知られている通り。
きょうは、宝塚歌劇団の映画『支那人形』と本庄映画研究所による『闇の手品』という作品を見た。
支那人形』は、映画としてはそれほど面白いものではなかったが、当時の宝塚歌劇の舞台が少し挿入されていて、歌劇のファンには興味深いものであろう。
『闇の手品』は、1927年に作られた作品。監督は、『何が彼女をそうさせたか』という映画で日本の映画史に名を残す鈴木重吉である。貧しい少年が、とある雨の降る夜に、ある男から大金を預かってくれと頼まれる。翌日に取りに行くからと。で、少年はこの大金をどうすればよいかいろいろ迷うわけだが、正直に生きるという倫理を守って、そのお金を警察に届ける。翌日、警察が少年の家にやってくる。実は、あのお金は泥棒が盗んだお金で、少年のおかげで被害者が救われたとのこと。正直に生きて良かった、というところで映画は終わる。鈴木重吉の作品は見たことがなかったので、貴重な上映だった。
阪神間モダニズムというのは、ちょっとは注目されているもので、私も興味がある。なので、これらの阪神間の映画撮影所について、まとまった本格的な研究書を誰かがまとめてくれることを切に願う。