「人間」と「キャラクター」の違い

日経IT PLUSの東浩紀の論「ライトノベルブームと『ファウスト』の行方」は、純文学プロパーの私にはよく理解できない。
理解できないのは、ここだ。

それは、人間として描かれた自然主義的な「私」ではなく、キャラクターとして描かれた虚構の「私」を中心として小説を組み上げる創作技法である。それでは、後者の場合明らかにキャラクターは虚構なのに、なぜその物語が「リアル」に感じられるのか。

人間とキャラクターがここでは対立されているのだけど、この二つの概念の違いは何だろう?。キャラクターに感情移入する読者、「リアリティ」を感じる読者を問題にしようとしているのが、それはそんなに新しい問題なのだろうか。東氏は「それは、日本のポップカルチャーを特徴づける最大の謎だと言っていい」とも述べているが、本当に「最大の謎」なのか。ポップカルチャー特有の問題なのか――。
純文学の登場人物とラノベやゲームのキャラクターの違いが、私には未だ理解できていない(ライトノベルやゲームにあまり関心がないので)。私は、純文学で「人間として描かれた自然主義的な「私」」も「虚構」だと思う。また純文学の登場人物に「リアリティ」を感じる読者は昔からいたわけで、それをボヴァリズムと呼んできたのではないだろうか。
さらに映画においても、当然感情移入する観客がいた。たとえばフリッツ・ラングの『飾窓の女』やウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』などで、さんざん問題にされてきたことではないか。何をいまさら…と純文学プロパーで映画好きの私は思うのだが、この考え方は間違っているのだろうか。
こうした私の見方からすると、東氏はやや<歴史>あるいは<全体>というものへの意識が足りないのではないか。そういえば、東氏は、先行世代の過去語りを自己慰撫として喝破し、ノスタルジックに過去を振り返ることを批判していた(参照、『限界の思考』)。たしかにこの批判は有効だし、私も頷けるものではある。しかし、そうして過去と現在を断絶させてしまうのも、やや早急だと私は思う。もう少し、先行世代の過去語りに寛容になっても良いだろう。<教養>主義の私は、<歴史>を参照することが必要だと思う。<いま・ここ>だけを問題にしていると、どうしても単視眼的になってしまう。そうした事態は避けたい。
ともあれ、新しい読者層の開拓の必要性、「まんが・アニメ的リアリズムを用いてしか描けない現実を極限まで追求し、その反照として私たち自身の歪さに切り込んでくる、そのような過剰さに満ちた作品」が必要だという意見は、傾聴に値するものではある。東氏は、おそらくライトノベルの世界でも『ドン・キホーテ』や『ボヴァリー夫人』のような作品が出て来いと主張しているのだろう。それは一つの意見として私は理解できる。しかし、東氏が問題にしていることが、ライトノベルやゲームといったポップカルチャーの独特な問題なのだろうか。この点に疑問を感じる。