吉村公三郎『地上』

◆『地上』監督:吉村公三郎/1957年/大映/98分/カラー
脚本は新藤兼人。原作は島田清次郎近代文学史にちょっと詳しい人なら、「島田清次郎」という名を見て、「ああ、あの小説家か」と思うだろう。『地上』は大正時代の大ベストセラーと言われる小説。とは言っても、現代ではほとんど読まれていない作品だと思う。私もまだ読んだことがない作品だが、映画を見たら読んでみたくなった。
舞台は金沢で、かつては大地主であったがいまは落ちぶれて母と二人、貧しく暮している大河平一郎という中学生が主人公。この母親を田中絹代が演じている。母親は、息子をなんとしてでも学校を卒業させようと、ひとり働きつづけている。
新藤兼人は、このように貧しく搾取されている人々を描くのが好きだ。思うに、新藤は映画を自身の思想を表現する手段と考えているのではないだろうか。映画そのものが好きだと思っている人だとは思えない。新藤が興味をもっているのは、資本家に搾取される庶民であり、男性社会で抑圧された生活をおくらざるをえない女性たちである。こういう人々の悲惨な生活を描くことで、日本社会の前近代性を批判しようと、それだけが新藤の目的のような気がする。私は、吉村−新藤のコンビの作品を、あまり高く評価しないのは、このところに原因がある。
ともあれ、『地上』は資本家と労働者の対立、男性社会と女性社会の対立という構図のなかで、平一郎と彼をとりまく女性たちの辛く悲しい生活が描かれることになる。中心となる平一郎とわか子との恋愛物語はメロドラマと言って良いだろう。二人は、階級の違いゆえに、結ばれることはない。ラストで平一郎が東京へ旅立つ場面で、なんとか家を抜け出して、平一郎が乗る列車を見送ろうと必死に駆けるわか子の姿が、非常に美しい。汽車と別れという主題は、メロドラマの常套句であろうが、それを魅力的なものにしたのは、わか子が必死に田畑の間を走るという運動なのだと思う。
結局、わか子は列車に追いつくことができず、走り去ってしまった汽車を見送ったあと、突然ばたっと線路上に倒れ線路に耳をつけ汽車の走っていく音を聞く絶望的なわか子の姿は印象的である。というのも、彼女は「横たわる女性」であるからだ。平一郎とわか子の二人は最後の逢瀬の時に、抱き合う場面がある。ここでも、わか子は横たわっていたことを思い出そう。わか子が横たわることは、平一郎を引き寄せることになり、そして二人は抱き合い接吻へと繋がっていくだろう。「横たわる」ことが、二人を密接な繋がりへと導く運動であったのだ。ということは、ラストでわか子が線路に耳を付けるために横たわるのは、平一郎となんとしてでも繋がろうとする行為にほかならない。だが、遠ざかる汽車の音とともに、その願いが潰えていく。こうして「横たわる」という運動が、二人の悲恋を強調することになるだろう。
それにしても、女性にとって「横たわる」ということが、いかに重大なことであるかをこの映画は教えてくれる。平一郎にひそかに思いを寄せていた芸者の冬子(香川京子)は、身を売られてきたその日、寝ようとして蒲団に入ると、家の主人に襲われてしまう。ここにおいて、女性には二つの身分があることが分かる。つまり、安心して「横たわる」ことのできる女性と、「横たわる」ことに危険が伴う女性の二つがあるのだ。自分の意志を表わすかのように自由に「横たわる」ことができる「わか子」と、「横たわる」ことは男性の支配下にあることでしかない「冬子」。このように、女性が「横たわる」ことのヒエラルキーを、この映画は見事に描き出していると言えるだろう。