若松孝二『17歳の風景 少年は何を見たのか』

◆『17歳の風景』監督:若松孝二/2005年/日本/90分
若松孝二の作品を初めて見た。この作品は、2000年に起きた事件を元にしたもので、母親を殺害した後、自転車で逃亡する17歳の少年が主人公の物語だ。
この映画が特徴は、主人公の少年がほとんど口をきかないということだ。映画のほとんどは、少年が自転車を運転している姿である。少年は、ただただ自転車を漕ぎ続ける。目指す場所はない。ときおり、どこかの町で地元の人に、ご飯をごちそうになったりするが、その人たちと少年が会話をすることもない。また、二人の老人と出会い、少年は老人たちの話を聞くが、この時も少年は黙って聞いているだけである。少年の内面は、時々字幕によって表示されるだけ。
映画の全篇が、少年が自転車を漕いでいる姿と、おそらく少年が見たであろう風景だけで構成されていたことに、私はひどく驚く。この手法は、かつて足立正生永山則夫を描いた『略称連続射殺魔』を踏まえているらしい。足立正生のこの手法は、当時の日本映画界でかなり話題になったものらしいので、この『略称連続射殺魔』という映画もいつか見てみたい。『17歳の風景』と比較すると何か分かるだろうか。
一つだけ面白いと思った場面がある。映画の全体を通じて、少年と自転車はほとんと一体と化したと言ってもよいのだが、映画の後半でふいに少年と自転車が分断されてしまう。坂道を登っているところで、少年が転んでしまうのだが、普通なら自転車も倒れるはずだが、ここではなぜか自転車は倒れず、転んだ少年を置いて、坂道を下っていってしまう。まるで自転車が意志をもって少年から離れていったように思えた。少年の身体の一部と言えるぐらい少年と一体化していた自転車が、なぜ突然少年を振り払い置いて行ってしまったのか。
この転倒で、自転車は破損し、もう運転できなくなる。しかし、少年は壊れた自転車を担いで歩き始める。これは、なぜだろう。旅を続けるにしても、わざわざ重い自転車を肩に担いで歩くことはないはずなのに。少年は、わざと自分の重荷を課しているのだろうか。重荷を背負うことは、自分で自分に課した処罰なのだろうか。
少年は歩き続け、とある山に登る。もちろん自転車を担いだまま。そして頂上まで登り切り、そこで少年は自転車を投げ捨ててしまう。その投げおろす映像は、一瞬だけ母親をバットで殴る映像とかぶる。これは何を意味するのか?。少年と自転車、そして母親の複雑な関係だけが示唆されている。これをどう読んだら良いのだろうか。