廣松渉『世界の共同主観的存在構造』

廣松渉『世界の共同主観的存在構造』講談社学術文庫、1991年11月
廣松の著作のなかでも、しばしば言及される本なので、以前から読もうと考えていたが、ずっと読まずに放って置いた。しかし、この前『宮台真司interviews』を読んで以来、この本は読んでおいたほうがいいと強く思った。
読もうと思っても、なかなか手が出せなかったのは、見た目の第一印象があまりに強烈だからだ。そもそも『世界の共同主観的存在構造』という漢字の多いタイトルからも、近寄りがたい雰囲気を出している。使われている言葉を見ただけで、「これは難解だ、読むのが大変だ」と思いこんでしまう。
実際、第一印象通りにけっして読みやすい本ではないのだ。しかし、またく意味不明なことばかり書かれている「難解」な書であるかといえば、そうではない。特に、第二部の一「共同主観性の存在論的基礎」あたりは、たとえば宮台真司の著作を読んできた人たちであれば、おなじみのことが書かれているのではないか。
たとえば「役柄存在」について、廣松はこう述べている。「「役柄存在」としての自己は、私が自発的に投企したものではなく、他者にとって期待的にある私の対他的な在り方であるかぎり、他者に帰属する。それは私の当為的な在り方として他者によって予期されている(と私が思う)私の在り方である。(p.241)」
要するに、「主観−客観」という哲学ではおなじみの図式を批判しているのだろう。そのうえで、「私」に認識には他者の認識も含まれていること、それが共同主観的な存在ということになるのだろうか。(説明しようとするとうまくできない。)
ともかく、本書は第二部がめっぽう面白い。どうしても本書を読まねばならないとしたら、この第二部だけでも熟読したほうがよい。その際、第二部は大きく三つの章に分かれているが、三つ目の章のデュルケムに関する部分を読むと、廣松が何をこれから問題にしようとしているのかが理解できるので、読む順番としては先に一番最後の章を読み、それから一、二と読み進んでいくのがおすすめ。

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫)

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫)