崔洋一『血と骨』

◆『血と骨』監督:崔洋一/2004年/日本/144分
原作は、梁石日の小説。家族に凄まじい暴力を振るい、徹底して自己中心的に生きる怪物「金俊平」をビートたけしが演じる。
最近、ポストコロニアル関係の本を読んでいたので、その関連でこの映画を観てみた。日本でポストコロニアルの研究をするとすれば、こうした小説や映画になるだろう。この物語の中心人物である「金俊平」は、たしかにとても興味深い人物だ。
誰かれ構わず己の邪魔をする者に対して行う激しい暴力。と同時、金への飽くなき執着。この二つが特徴なのだが、とりわけ金俊平にとって暴力とは何だったのか。たとえば、こうした時、ファノンの著作などを参照してもよいのかもしれない。内側すなわち家族へと金俊平が怒りをぶつけること。これなどは、おそらくファノンの分析が応用できるだろう。ファノンをまだ読んでいないので、これ以上の詳しいことが分からないが、きちんとファノンを読んで考えてみたいことである。
この物語は、オフィシャルホームページを見ても分かることだが、「家族」の物語ということになっている。「家族」物語といえば、「家」という建物にも注目しなければいけない。「家」は内側と外側を分ける機能がある。その内と外の境界にあたるのが、家の「入り口」だと思う。映画中で、暴力が起こるとき、決まって男たちはモノにあたる。金俊平にしろ、息子の正雄にせよ、モノに当たり散らし、粉々に破壊しつくす。この家の破壊シーンを何度か見ていると、どうしてこう律儀にモノを壊していくのだろうかとふと疑問に感じるぐらい、男たちはしっかりとモノを壊していくのだ。ちなみに、この映画には、懐かしいちゃぶ台が出てくるのだけど、やはりというべきか、金俊平はちゃぶ台を見事なまでにひっくり返す。家族の物語において、ちゃぶ台とは、常に怒りをぶつけるモノであり、それは「父」によって、ひっくり返すために存在しているモノであることが確認できる。これは物語における一つの文法なのだ。
脱線した。問題は家の入り口である。男たちが喧嘩をするとき、決まって家の玄関が破壊されるのが興味深い。この入り口を破壊することが本当の目的なのではと思うぐらい、男たちは家の入り口を粉々に破壊している。俊平と武が喧嘩をしたときでも、二人がもつれあって、玄関の戸を破壊してしまうし、たしか正雄と俊平が争ったときも、両者とも鉈やバットでお互いの家の玄関の戸を破壊するわけだ。玄関の戸を破壊することに対する、激しい情念を観客は感じると思う。
この破壊行為は、考察に値するのではないかと思う。先に述べたように、家は内と外を明確に分ける装置だが、その内と外の境界に位置するのが、玄関の戸であると思う。つまり、玄関の戸一枚によって、内と外が断絶しているのではないか。こう考えてくると、この破壊行為は、彼らの歴史的背景や、民族問題とか、要するにポストコロニアルの問題と関わってきそうだ。このあたりを調べると、この破壊行為に何か意味づけができそうなのだが、なにより戸を破壊する男たちの情熱をここでは確認しておきたい。
それにしても、訳の分からない暴力を演じるときのビートたけしは、本当に怖い。ところで、面白い場面があった。俊平が、清子を連れてきたときのことだ。ここで、二人が自転車に乗っている場面があるのだけど、この自転車のシーンを見ていて『キッズ・リターン』を思いだした。『キッズ・リターン』でもマサルとシンジが仲良く、曲芸のように自転車を乗るシーンが非常に印象的だった。自転車のシーンは、なぜかほっとする。このシーンがなかったら、全編陰惨な場面ばかりで、きっと退屈してしまったはずだ。たけしにとって、自転車はけっこう重要な意味を持っているのではないか?