『お伽草子・新釈諸国噺』

太宰治お伽草子新釈諸国噺岩波文庫、2004年9月
斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス 外七篇 (文春文庫)人間失格 (新潮文庫)
私はそれほど熱心な太宰読者ではなくて、初期の作品と戦後の作品ぐらいしかこれまで読んだことがない。私自身も自意識過剰なところがあるので、太宰の小説を読むと、その語り手なり登場人物のダメっぷりに同一化してしまう傾向がある。それで初期の作品と戦後の作品ばかり注目していたのだと思う。「走れメロス」も傑作だと思うが、やっぱり『人間失格』なんてものが、私のなかではベストだった。だけど、その評価もこの本を読んで変わるかもしれない。
最近岩波文庫から出たこの『お伽草子新釈諸国噺』は、解説を読んでみると、戦時中に書かれたものだ(『お伽草子』は昭和20年10月に筑摩書房から刊行。『新釈諸国噺』は昭和20年1月に生活社から刊行)。この本の解説を書いた太宰研究者の安藤宏は、「太宰個人にとっても、これら二作は明るい向日的な作風である中期の、いわば総決算としての意味を持っており、小説家として脂ののった時期のエッセンスが凝縮されている」と述べている。
お伽草子』は、いわゆる「昔ばなし」として知られている「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」が太宰の語り口によって再料理されて、けっこう面白い。「カチカチ山」なんて、16歳の美しい処女(=兎)と醜男(=狸)の話になっていて、「この兎は十六歳の処女だ」と断言する作者が楽しい。「曰く、惚れたが悪いか」という狸の名言がここに登場している。
新釈諸国噺』は、西鶴の作品を翻案したもの。もともとの西鶴の話自体が面白いのかもしれないが、この太宰の話もなかなかのもの。各話の最後のオチを読むのが楽しい。
さて、この岩波文庫には高橋源一郎も解説を寄せていて、源一郎が好きな私としては、この文章もまた楽しみであった。なので、少し詳しくこの文章を辿ってみたい。
この中で源一郎は、太宰を「母親」であると言う。日本の近代文学において、漱石が「父親」だとするならば、太宰は「母親」の代わりをしてくれる作家なのだと。
それはどういうことか。「父親」の役割は「生き方」を提示する。「公」のなかで、いかに生きるか。言い換えると、「人は「建前」としてどう生きるべきなのか」を教えるのが「父親」ということになる。
一方で「母親」は何をするのか。「母親」は子に「本音」を教えると源一郎は言う。「本音」を教え、そっと子を抱き締める。それが「母親」なのだと。

だから、太宰治への拒否反応は、「母親」へのそれに近い。もういい、ぼくは大人だ、子どもとして見ないで、触らないで、抱きしめようとしないで、ほっといて。そんな風に、彼らは反発するのである。(p.378)

「公」と「私」というテーマが、ここで提示されている。続いて、太宰がどうしてこの時期(戦時中)に日本の古典を題材にしたのか。源一郎は、こう書いている。「日本の古典、日本の古い言葉、我々を養ってきた古き善きものたちの言葉。それは要するに、我々日本人にとって、「母親」にあたるものではなかったか。(p.378)」
漢詩・漢文が「男」のものであるとすれば、「ものがたり」は「女」のもの。太宰は「女」のものである「ものがたり」をさらに女性化した。太宰の登場人物たちは、「女々しく」告白する。たとえば「吉野山」。出家のつらさ、哀しさをつらつら書き綴った手紙を知人に出す主人公の「女々しさ」に、源一郎は太宰の作り出す人物であることを指摘する。そして、出家とは「公」からの撤退を意味したはずなのに、いつしか「公」から「公」への移動を意味するだけになり、それが「偉い人」になってしまった。太宰の人物たちは、それに耐えられずつい「本音」を呟いてしまう。
その「本音」とは何か。源一郎は、『お伽草子』を読めばいいと言う。ここで、引用されているのが、『お伽草子』の前書きにあたる冒頭部分である。そこで、太宰が語っているのは防空壕のなかで子どもたちに絵本を読み聞かせ、そこからさらに「物語」を創造していく父親の姿である。
源一郎が注目するのは、「戦争が起った」ということだ。戦争とは、「公」の極限だという。すなわち、それは「私」が「公」に追いつめられ、打ち負かされてしまうことだ。
そんな状況のなかで、太宰は物語の人物たちと同様に「常軌を逸した行動」に出る。つまり「本音」の行動に出た、というのが源一郎の主張である。物語を聞かせるのは、古来から「母親」の仕事であった。戦争は、それを奪ってしまう。そこで太宰は自ら「母親」となって、物語を語る。それは「怒りの行動」である。
ここでは、「公」=戦争への抵抗として、物語を語るという行為が位置づけられている。個人=「私」の声を奪い、全体=「公」に覆われていく時局のなかで、「母親」が物語を語ること。「公」から「声」を奪い返す行為として、源一郎はこの作品を読んでいる。

時代が、「公」一色に塗りつぶされようとする時、大きな声、乱暴な声ばかりが聞こえるようになった時、どんな声を聞きたいだろう。
 もうダメだと絶望しそうになった時、それを支える力が、例えば、文学にあるだろうか、と考える。(p.385)

それなりに説得力のある論だ。だけど、これまでの私の考えでは、このような読みは批判的に捉えなければならない。この作品の研究史を知らないが、やはり「戦争」という状況を切り離して論じることは難しいのだろう。戦争が激しくなり本土への空襲も激しくなるなかで、太宰は日本の古典やむかしばなしを題材に物語を語る。この行為の意味は何か、ということがきっと研究や批評で問われることになるのだろう。「公」への迎合だったのか、抵抗だったのか。ここで、あえてそんなのものはどちらでもいいではないかとするのは、乱暴な思考なのであろうか。

お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)

お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)