<アジア>という視点から

波状言論』の最新号(16号、2004年09月30日)に、投稿論文が掲載された。舞城王太郎論だ。さっそく読んでみたが、なるほどこの評論はかなりレベルの高い、面白いものだった。文章がこなれていないような印象は受けたが、それは全然この評論の価値を下げるものではない些末なことだ。戦後日本の思想において、取り残されてきた場所である<アジア>という視点から、村上春樹、そして舞城を読み解くという野心的な試みに、はっきり言って、嫉妬心を感じるほどだ。こういう読み解き方があったのかと少し驚いたのは確かである。
それでも、あえて何かを言うとすると、私ははじめの「自然」というキーワードにどうしても違和感を抱く。「自然」という言葉ではたして良いのか?文藝評論の世界でも「自然」という言葉は、手垢にまみれてた言葉であって、これを屈託なく用いてしまうと、たしかに間違いではないのだけど、すこし面白さに欠ける。「自然」ではなく、別の言葉で言えなかったのか?舞城に対する私的な印象だと、「自然」では舞城をうまく言い表せないと思うのだがどうなのだろう?
あと、つまらないことを言えば、この評論において、本当に書きたかったのは、実は舞城ではなく村上春樹だったのでは?舞城をきっかけとして、村上春樹論を書くはずだったのではと、この前半部分だけを読んで感じた。後半部分を読まないとなんとも言えないが、これは絶対村上春樹論なのだ、と私は思う。