日本近代文学の「躓き」?

すが秀実『「帝国」の文学 戦争と「大逆」の間』以文社
思うに、すが氏は批評家にしては、アカデミックな世界にも目を配らせていて、アカデミックな日本文学研究を「外部」から批判している。その批判が的を射ているのかどうかは別として、私は面白い批評だなと思う。というか、参考になる箇所がある。
ところで、『批評空間Ⅱ−21』(1999)の共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」のなかで、批評の現状に東浩紀が強烈な怒りをぶつけていたのだけど、たとえばこんなふうな批判があった。

いまの批評の現状を全体として見たとき、ある種の固有名にくっついている言説が批評的だと呼ばれていて、その結果読者を狭めているし、全然批評的な誤配が起きていないというのは事実です。たとえば、デリダについてはこのように語ると批評的であるというフォーマットは現にあるんです。

引用しながら思ったけど、これは「批評」よりもアカデミックな論文のほうがより当てはまる事実だ。アカデミックな論文には、「これこれ、こう書いたら研究論文になる」というフォーマットらしきものがあるんじゃないか。
それはさておき、すが氏の本の中心テーマとなる「大逆」つまりは大逆事件も、ある種の「説話論的な磁場」になってはいないだろうか?大逆事件について何かを言えば「批評」だ、というようなことが、ここ数年あったのではないだろうか?
大逆事件というのは、言うなれば日本近代文学の「躓き」なのだろう。すが氏のこの本も、やはりというか結局、いろんな文学者の「躓き」の仕方を描きだしたものだと言える。要するに、この本は、田山花袋が、荷風が、漱石が、そして中上が、こんなふうに大逆事件に躓いたのだ、見てみろ、という批評になっているのかもしれない。面白い本だけど、やっぱり磁場に囚われてしまっている、あるいは磁場に囚われかねない危うさを孕んだ批評だといえるのではないか。