「介して」ではなく「ともに」読むこと

蓮實重彦『物語批判序説』中公文庫
この本のなかでは、ロラン・バルトについても触れられている。引用されているバルトの『テクストの快楽』からの次の言葉が印象深い。

愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。(…)読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。(…)それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないといえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。

この言葉を読むと、少しは勇気づけられる。ある本を読みながら、まったく関係のないことを考えてみても良いじゃないか。それで、自分の仕事がはかどればいいじゃないか。というわけで、この『物語批判序説』を読みつつ、思いついたこと、妄想したことを書き連ねてみたい。
まず、この本のはじめに登場し、中心のモチーフとなる「紋切型」とは何か。ここでは、たんに画一的な思考をさしているのではない。「紋切型」はあくまで「構造」の問題であると言う。
その構造とは果たしてどのようなものか。現代の言説の特徴として、特権的な知の語り手はいない。この問題は、自分だけが知っているから、自分だけが語る権利を持っている、という時代ではないのだ。現代の言説の特徴は、誰もが知っていることを誰でも語れるということにある。ある特権的な語り手のみが語れるのではない、と言う点においては、はなはだ「民主的」な構造だと言える。
自分だけの「問題」あるいは自分の「問題」といったものは存在しない。つねにそれは自分のものではなく、他人の「問題」でしかない、ということだ。他人の問題を他人の言葉で語る。しかも誰に頼まれたわけでもなく人は語ってしまうだろう。
さて、この本では他者の問題としてしか語れないものとして、たとえば今の日本においては「戦後」の問題をあげている。この短い箇所が面白いのは、たとえば『<癒し>のナショナリズム』と繋げて考えることができるのではないか、と思ったからだ。
すこし論を追いかけてみよう。今日の日本には、戦後という他者の問題が「問題」化しているという。今、戦後を語ろうとするならば、それは他者の言葉として、「すでに構造化されている説話論的な持続へとみずから分節化されてしまう」ほかにない。
『<癒し>のナショナリズム』の調査で興味深いのは、戦争を直接体験した「戦中派」と体験を持たない戦後生れの若い人たちとの間に交流がないことだ。「戦中派」の人たちは、自分の体験したことを語りたがっている。が、若い人は「戦中派」の人とは価値観が合わないという。ここには、やはり語りの構造の変化があるのだろう。
たとえば、「戦中派」の語りとは、こういうものではないか。

実際、戦後という「問題」の肯定的な側面を顕揚するものも、その否定的な側面の強調に固執するものも、それじたいは貴重なものであったに違いなかろう個人的な体験の記憶や、それなりの物理的な苦労を伴うであろう文献調査などといった手続きによって、それぞれが物語を特権的な知に従属させ、いずれも「流行語」の時代の排他的な力学に従って語ることで、自分の言葉を正当化しうると信じている。(『物語批判序説』p.153)

誰もが知っていることを誰もが語れる、戦後はそのような「問題」化された時期に、自分だけが特権的な知を持っており自分の問題として戦後を語れると思っている点において「戦中派」は「問題」に対して「無感覚」であるといえるかもしれない。したがって、戦後が「問題」化されている時期に生きる人にとって、特権的な知の語りは排除したい、しなければならない。
『<癒し>の…』のなかで紹介されている、ある若者の次のような文章がとても正直に思えてくる。

「日本の近代の戦争における英雄が英雄視されない理由は二つあります。
・ひとつは左翼が『侵略戦争だ』『南京大虐殺だ』と騒いできたこと。
・もうひとつは、戦中派と呼ばれる人たちがまだ生きていたこと。(『<癒し>のナショナリズム』)

ここで求められるような英雄物語を誰でも知っていて、それを誰もが語れて、みんなで共有できること。そうなるには、特権的な知が障害になっていることが指摘される。こうして、けっして共有できない他者の問題が、排除を伴って、あたかもまるで自分の問題のように語られ始める。誰に頼まれたわけでもないのに、「普通」の人が「戦争」や「国家」を同一の説話論的な構造でもって語り合い、同じ物語を知っていることを確認しあうことによって、連帯感を感じる。他者の問題を他者の言葉で語っているにもかかわらず、あたかも自分自身の言葉で考え語っていると思いこんでいることが「凡庸」だったのだろうなあと思う。
それから、話は飛んでしまうけれども、誰もが知っていることを誰もが語るというのは、まさしく学問の世界がそれなのだろう。学者というのは、実はみんなが知らないことを研究し発表するのではなくて、みんなが知っている、少なくとも学者であれば知っていることを、学者であれば語ることができるものを他の学者に示さねばいけない。そうすることで、学者世界の連帯感が生れ、学問の世界が永遠に持続していく。みんなが知らないこと、語れないことを発表しても、この学の世界では受け入れてもらえないのだろう。というか、そもそもそんなものは評価できないのだ。学の世界というのは、誰もが知っていることをみんなで確認しあえる場所、そういう言説空間なのだ。そこでは、間違ってもオリジナリティなど存在しないだろう。
たとえば、論文において、他の研究者の論文を引用あるいは参照したことをはっきりと示す「儀礼」は、この学者の連帯感を強める上で重要なのだ。だから、研究者はみんなこの「儀礼」に神経質になるのだろう。