『東京物語』を見た

◆『東京物語』監督:小津安二郎/1953年/松竹大船/白黒/サウンド版/135分
ああ、やっぱりこの映画はすごかった。名作なんだなあとしみじみと思う。不覚にも後半部分では、登場人物に感情移入して泣きそうになってしまった。あまり映画に感情移入することはないのだけど、原節子の「ずるいんです」なんていうセリフを聞いていると、じわじわっときてしまうわけで…。
でも、この映画のなかに限って言えば、わたしは杉村春子が気になって仕方がない。杉村春子って、いつも小津映画ではふてぶてしい性格の人物、いかにも通俗的な人物を演じていて、それが強烈な印象として残っている。「悪」とまでは言わないけれど、日常の生活にありふれた人間の「狡さ」を見事に体現しているのだ。
父が酔っぱらって夜遅くに帰ってきたときの「やんなっちゃうな」というせりふ回し。母危篤の電報を受け取り、兄さんと相談したとき、「どうする喪服、持って行く?」なんてことを考えている。お葬式の直後に、母の形見を要求してしまうあたり。末っ子の京子が、怒るのも無理がないほどの「通俗」ぶり。この図々しさが実は魅力なのだ。要するに、「ああ、こういうおばさんって、よくいるよね」という感じがしてしまう。思うに、杉村春子はモダンなのだ。モダニズムのモダンではなく、現代性と訳されるモダニティにちかい意味でのモダンな人だと思う。
原節子が「ずるいんです」と自分自身の内なる「悪」と、この杉村春子が体現する俗っぽい「悪」が、この映画ではきわめて対称的なのだ。この差をうまく説明できないけれど。
原節子が演じる紀子は夫を戦争で亡くした未亡人なのだけど、『東京物語』を見る度に私が思い出すのは、じつは『めぞん一刻』なのだ。もちろん「未亡人」ということでつい接続させてしまうのだけど。
義母の葬式の後、義父の笠智衆と二人っきりになって「ずるいんです」と告白する例の場面。紀子は、いまだに夫の写真を部屋に飾っている。そんな様子を見てか、義父も義母も紀子に気兼ねなく良い縁があれば結婚していい、と説得していた。
例の告白場面でも、義父に「いい人じゃ」と言われ、それを打ち消すように紀子は、いつも夫のことを考えているわけではない、忘れていることもあるんです、と言う。だから「ずるいんです」と。だけど、そんなことはないのは、紀子の強い口調によって充分すぎるほど伝わる。本当は、いつまでも夫のことが忘れられないのだ。そもそも、紀子はどうして再婚しようとしないのか?
末っ子の京子は、兄さんや姉さんが葬式が終るとさっさと帰京してしまうことに憤慨するが、紀子はその時、年を取ると自分のことが中心になってしまう、家族とは異なる自分の世界ができてしまうものなのよ、という感じで説得する。これは、もしかすると紀子は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
小津の映画は残酷だ。淡々と時間が過ぎていく。一見すると同じような日々の繰り返しだ。映画の冒頭部、東京へ出発する準備をしている老夫婦。そこへ近所のおばさんが顔を出し、挨拶をする。映画のラストシーンも同じように、近所のおばさんが通りかかり、挨拶をする。このはじめと終りはほぼ同じような繰り返しなのに、だがしかし、この二つの場面には決定的な差異がある。妻の「死」だ。この差異は、非常に残酷だと思う。だけど、夫は「きょうも暑うなるぞ」といって、淡々とこの反復と差異を受け入れている/いれようとしている。笠智衆が、朝日が昇るのを眺めて、すっと立っている姿はとても印象的だ。
紀子が、亡くなった夫のことを本当は忘れまいとしているのは、この小津映画の本質とも言える反復と差異を拒否しようとしているかのようだ。それは、もしかすると小津映画を否定する身振りなのかもしれない。一人は、差異を運命として受け入れる。一人は、必死に差異から逃れようとしている。その対決が、例の紀子の告白の場面だと言って良い。だからこそ、二人は最後に家に残らなければならなかったのだ。