『好き好き大好き超愛してる。』を考える(つづき)

わたしは、この小説のなかで一箇所、とても気になるところがある。ほぼラストの場面だが、柿緒が治に「秘密」と称してひとりで出かけた日のことを述懐している箇所にこんな一節がある。引用してみよう。

 柿緒がどこに行ったんだろうという気分が今の僕にも受け継がれている。
 でもこれは柿緒がどこへ逝ってしまったんだろうという気分なのかもしれないし、やっぱりあのとき本当に柿緒はどこに行ったんだろうと今でも実際に考えているのかもしれないし、その日の行き先とは別に、僕はいまだに柿緒のことをもっと知りたいとただ単純に願っているのかもしれない。(p.180、強調は引用者による)

この箇所が気になるというのはほかでもない、「行った」と「逝った」の差異をうまく使っているなあと思ったからだ。説明するのは難しいが、柿緒が一人で出かけたその日に感じていた「気分」が柿緒が亡くなった「今」でも持続しているのか、いやそれともこの「気分」は柿緒が「逝った」ことをどうやって自分のなかに受け入れようとしているのか、治のとまどい、混乱を「行」と「逝」の差異で表象しているのだと、とりあえずは言えるのだろう。しかし、それで何が言いたいのだろう?と私のなかではまだ、うまく解釈ができない。