私には違和感を覚える内容だが

◆堀内圭子『<快楽消費>する社会』中公新書
<快楽消費>という言葉に引かれて、図書館で借りて読んでみた。とても上手に書かれた文章で、説得力もある主張だ。本書のように研究論文を書くと良いのだろうなあと思う。論文の書き方として参考になる本だ。
しかしながら、中身はどうかというと、ちょっと言い方は良くないのだが、なにか騙されているような印象を受けなくもない。そもそも本書では、<快楽消費>というものがどのように説明されていたか。

快楽消費とは、「消費者行動を通じて、当人にとって望ましい感情を経験すること」である。(p.40)

なにか商品を選択したり、購入したり、そしてそれを利用したり使用したりすることで、消費者が喜びや楽しさ、心地よさや安心感などを得たりする。最近では、<癒し>なんてものも当てはまるだろう。
本書によれば、消費者行動のこれまでの研究において、快楽消費の視点から研究がいくつかなされている。しかしながら、これまでの研究で快楽消費というと、楽しさや面白さに限定されていたり、スポーツ観戦、芸術鑑賞、レジャー活動に焦点が当てられたり、快楽は不合理なものと言われたりしてきた。
そうした点を受けて、本書では、1)快楽は楽しさやおもしろさに限定されない、2)快楽は、レジャー活動、芸術鑑賞、スポーツ観戦だけではなく、それ以外にもある、3)合理的な快楽もある、という視点から快楽消費を分析した。ここがオリジナリティなのだろう。
で、本文中では、様々なかたちで論じられていくのだが、それをとばして、結論をみると、つぎのようなかたちにまとまる。

本書では、「快楽」の視点から、さまざまな消費者行動の説明を試みてきたが、行き着くところは次の一点であろう。それは、消費者は、合理的なものであれ、非合理的なものであれ、快楽を求めているということである。(p.190)

たしかに、その通りで、ここに至るまでの本書の論証は説得力があるものなのだが、どうもこの主張を読むと、変な感じがするのはなぜだろう?結局、思ったのは「快楽」を用いると、なんでも説明がうまくいってしまう、というのが問題なのではないか。そもそもの出発点である、先に引用した<快楽消費>の定義はあれで良いのか?主観的に望ましいと思える経験と言ってしまうと、果てしないというか、なんでもそれで説明出来てしまうのでは。逆に、たとえば主観的に望ましくない感情を経験する消費行動って、どんなことがあるのだろう?主観的に望ましくない経験をするように商品を選択して、買うということをするだろうか?
いや、本書は、消費者が消費を通じて、<快楽>を求めているということを主張しているだけなのか。私が変な読み方をしているだけか…。