その通りだが

InterCommunication』No.49の5つの対話特集は、どれも刺激的で読みながら知的興奮を感じている。大澤×北田対談での、大澤氏の北田本への容赦ない批判は、すごいなあと。中村桂子×西垣通の「情報・生命・社会」の対談もなかなか面白い。「生命」研究も関心の枠に入れておかないとダメだなあと思う。生物学やら動物行動学やらいわゆる「理系」の学問と言われているところも、きちんと勉強して、いずれは文学・文化研究のほうへ接続してみたいものだ。
文理の枠を超えた学際的研究というのが、今、ちょっとした流行ではあるけれど、ただ単に新しさを売りにしただけで、中身は以前と変わらない、そんな浮ついたレベルで興味を持つのではなくて、きちんと両者を繋げられるような研究者が現れないといけない。これまでは、あまりにも文学や文化を研究する者が、科学が得てきた知見に興味がなさすぎたと思う。「人間」を研究するということでは、人文系だろうが、遺伝子の研究だろうが、共通しているではないか、と。あらゆる角度から「人間」を考察するためにも、関心の幅をもっと拡げなければと思う。
で、実は、このことは対談のなかで西垣氏も述べている。中村氏が、生命については、なにも科学に拘らなくても詩でも捉えられる知もあるだろうと述べ、それを受けた西垣氏は、こう述べる。

今の若い人にもそういうことを考えている人たちがたくさんいると思うんです。ところがそういう人たちが学者になろうとすると、今のアカデミック・システムの壁がはじき出してしまう。わたし自身、矛盾した立場にあります。大学で非常に広くいろいろなことを勉強したいという学生に、博士論文を書かせなければいけない。キミあまり広くやっていたら専門的な論文なんて書けないんだよ、と言わざるをえない。一旦は専門バカにならないと、食べていけないわけですよ。大学に就職できない。(p.137)

このあたり、よく分かる。しかしながら、私は専門に集中することが悪いことだとは全然思わない。やはり、一度は専門バカにならなければとも思う。問題は、その後なのだろうなあ。専門家として一人前になった後、いかに、そこから抜け出すか?が重要だ。いつまでも、博士論文を引きづったままの研究者ではダメなのではないか、と私は思うし、私自身は、もし博論を仕上げたら、さっさとその研究は捨て、まったく別の研究をやるのが願望である。