江藤淳に関心のある人は読むと良いのかもしれない

大塚英志サブカルチャー文学論朝日新聞社
ようやくこの分厚い本を読み終えた。印象としては、結局ひどく迂回しているものの、この本は江藤淳論と言って良いのだろう。そもそも本書の出発点は、江藤淳が発した文学のサブカルチャー化問題を検証することにあるのだから。江藤淳が指したサブカルチュアの中身が何だったのか。
ということで、江藤淳がなぜか村上龍を批判し、田中康夫を好意的に受け止めていたのか、など江藤の批評の基準を分析していく。その過程で、村上春樹吉本ばななの小説も検討され、最後は石原慎太郎三島由紀夫大江健三郎らを分析することで終る。
三島がディズニーランドに興味を示していたというエピソードから始まる三島論は、なかなか読み応えのある面白い分析だと思う。コピーのコピーの美学というもの、つまりコピーをコピーしたほうがオリジナルに見えるという三島の感性を指摘しているところは参考になる。80年代の消費文化論を三島は先取りしていたと、三島の文章にただ既視感を覚える大塚英志がここにいる。
でも、問題点もきっとたくさんあるのだと思う。平岡篤頼は、『小説トリッパー』(SPRING 2004)で書いたこの本の書評のなかで、つぎのようなことを指摘している。

ただ本書で、文芸誌的文学とことわりがついているとはいえ、《文学》と小説とが無媒介に同一視されていることには疑義を覚える。少なくとも十九世紀前半までは、小説そのものがサブカルチャーの代表だったのであり、それがいつの間にか真実の受託者、人生の教師という《大説》的権威を振りかざすようになったのは百五十年そこそこ前からにすぎない。(p.143)

たしかに、全体を読み通してみると、文学=小説という図式が前提にされているようだし、そもそも小説がサブカルチャーであり、それがいつしかメインカルチャーのように受容されてしまったという歴史意識が抜け落ちている。(まったく歴史意識がないとうことではないが。)小説がメインの文化であるのは、歴史的なことであるにも関わらず、ここでは小説=メインカルチャーという図式が、それこそ大塚英志風に言えばなんの「屈託」もなく前提にされている。
その原因として一つ考えられるのは、大塚が作家の伝記的事項には興味がない、としているところだろうか。たとえば小熊英二は逆に『<民主>と<愛国>』では、江藤淳の戦争体験というものを踏まえて論じていたことを思い出す。
あと、屁理屈のようなことを言わせて貰うと、本書で時々なのだけど、「誰々がどこかで〜ようなことを書いていたのを覚えているが」というようなことを書いている。もちろん、この本は学術論文ではなく文芸批評だから、文献の処理の仕方が若干異なるのかもしれない。しかし、「あとがき」で大塚はこんなことを書いているのだ。

ただ引用部分の重複は敢えて行い、かつ引用部分は前後の文脈が読みとれるようにやや長めとした。それは学生に各所で接していると、批評や論文に引用された文章の出典に当たっていくという手間を思い当たらぬ者が相応にいるからで、そのことをとやかく言うより、やや長めに引用することでとにかくも「文学」のことばに触れさせた方が生産的だと考えたからだ。(p.658)

これは、ある意味親切である。しかし、一方で自分の記憶の文章を確認せずに書き付けるという危ないことをしているわけで、そういうことはやめてもらいたい。学生のためにも。論中で言及するものは、たとえ些細なことでも、どこに書いてあるかぐらい調べておくべきなのでは、と思う。