ぼんやりと考えてみたことをとりとめもなく書いてみる
近所に花見の名所があって、今日と明日はイベントがあるみたい。人がたくさん集まっていて、賑やかっぽい。今年はあまり天気がよくないし。
『サブカルチャー文学論』がまだ読み終わらない。今日と明日でなんとか読み終えよう。
「真面目」と「滑稽」が表裏一体であることは、あらためて指摘するほどでもないけど、ぼんやりとこの二つについて考えていたので、メモしておく。
たとえば、子どもは遊びのなかで、誰かの話したことを真似して話すということをする。鸚鵡返しのように言葉を返し合うことをする。
A:「わたしのまねしないでよー」
B:「わたしのまねしないでよー」
A:「もうやめてよー」
B:「もうやめてよー」
みたいな遊びというかじゃれ合いのことだ。このとき、Aは真面目にBに語るけれど、その口調を真似するBの言葉には真面目さは消えて滑稽になってしまう。同じ言葉でも、ひとたび模倣されると、その言葉の価値が反転してしまう。文学理論(たとえば有名なものではバフチンの笑いの理論とかを想定しているのだけど)において、パロディとか引用の理論というのは、こうした事態すなわち子どもの言葉遊びのことを指した物だったと言える。
言葉というのは、反復し続けると、次第に本来持っていた力を失うのかもしれない。使い続けることによって、疲弊しすり切れてしまった言葉。そんなものを集めた本が、たとえばフローベールの『紋切り型辞典』なのかもしれない。
しかし、使いすぎてすり切れた言葉とて、時々復活することもある。反復されて使われていた場所から、少しずらすことで、再び言葉の生命が甦ることもあるだろう。
言葉が「真面目」と「滑稽」の間を往復すること、この運動が言葉のダイナミズムを生み出すのだろう。