その2

たとえば、「純文学」といったジャンルが今や機能せず、くだらない延命策を弄しているだけだと文壇批判をする。で、自分が良いと思った作家を評価する状況を作り出す。というところまでは理解できるとしても、一方で「自分の好みではない作家」と「自分の好みの作家」という新たな二項対立で分けてしまう批評とは一体何のか。で、「自分の好みの作家」が評価される状況を作り出せば文学は変わるのだという主張は、あまりに自己中心的ではないか。
これでは、たんなる印象批評にすぎない。さらに、そうした自分の同じ趣味の人たちが集まって、「今の文壇はくだらないねー」みたいに批判しあっていても、気持ちが悪いだけだと思う。
「自分の好みではない」作家=ただたんに古くさいシステム内でもちあげられているだけ、と斬って捨てるだけ。本当にすばらしい作家は、「自分の好みの作家」であり、その価値は自分(たち)だけが分かる、といったロマン主義。これで本当に「文学」が変わるのだろうか?
印象批評や観念批評というのを散々批判してきても、結局人はそうならざる得ない。私自身も印象で物事を語りがちだ。だからこそ、特に文学に関しては安易に評価を下さず、「読む」ことで罠に陥ることから逃げようとしているのだが。「芥川賞」=くだらないシステム→読まない、というのは感想を書くのならばともかく、プロの批評家が批評を書く場合、果たしてそれで良いのか??