◆『ラスト サムライ』監督:エドワード・ズウィック、出演:トム・クルーズ、2003年
先々行で見る。微妙な映画。例の如く、この手の映画の批評だと文化の誤解を指摘されるのが予想される。確かにツッコミどころは多い。ステレオタイプな日本人表象だ、オリエンタリズムだ、などと言う人もいるだろう。しかし、こういう言及は、映画批評としては芸がない、というか退屈な言説だと思う。したがって、映画からステレオタイプな日本人表象を探し出してしたり顔のステレオタイプな批評を出来るだけ避けてみたい。このような退屈な批評は、たとえば「異文化コミュニケーション」の大学の先生がやってくれるだろう。
とりあえず、見た直後の印象を述べれば、PC的な映画だったなあと。多文化主義というのが徹底しているのか、マイノリティをかなり配慮しているのだろう。サムライというフィルターを通して語るのは、アメリカのトラウマを語ろうとしたのだろうか。でも、それがこの映画の気持ち悪さの原因と思える。
さて、この「気持ち悪さ」を映像の面から考えてみる。この映画で特徴的と思えるのは、戦闘シーンでスローモーションが多用されることだろう。
たとえば、勝元とオルグレンが訓練した官軍との最初の戦闘場面。ここで訓練が未熟だった官軍側は、ぼろぼろにされ敗走し、オルグレンは勝元らに取り囲まれてしまう。そこで、必死に旗竿を振り回して防戦するオルグレンがスローモーションで映し出されている。私の記憶では、このオルグレンの姿を勝元の顔がクロスカッティングされていたはず。つまり、これによって勝元がオルグレンに興味を持ったことを意味する。
破れた官軍側の指揮を努めた長谷川は、勝元の介錯によって切腹自害するが、オルグレンは捕まり馬で運ばれながらこのシーン目撃する。ここではオルグレンの視線で切腹シーンが映し出されるが、肝心の勝元が首を切る瞬間に大きな木がオルグレンの視線を遮る。ここは一瞬で終わる。スローモーションが当然ない。これは、オルグレンには理解不能は野蛮な仕打ちに見えた。
スローモーションの観点から、取り上げておきたいのは、ラストで敗戦を意識した勝元とオルグレンらが死を覚悟して官軍に突入する場面である。官軍側は、アメリカから仕入れた最新の銃器を使って、彼等を迎え撃つ。その銃弾の嵐の中を全速力で駆け抜けるわけだが、勝元らが銃弾に打たれ倒れるシーンはスローモーションになる。そしてこのシーンをクロスカッティングされるのは、官軍の指揮官の顔。指揮官の顔は、たくさんの銃弾を浴びる姿を見て苦悶の表情を見せる。その顔をスローモーションで撃たれ倒れる勝元やオルグレン。このクロスカッティングによって、官軍の指揮官は、勝元らの姿に感情移入する。彼等の死を理解し始める。そのため、大村が撃てと命令しても、その言葉を無視して銃撃を止めるように兵士に命令する。そして、このあとなぜか勝元らに土下座をするシーンが続くわけで、このあたりはPC的で気持ちが悪いと言えば悪い。
さて、こうしてスローモーションの場面を見てくると、これは敵/味方という境界を越えて、何らかの感情の交流、他者を排除するのではなく理解しようとするとき、スローモーションが用いられるのだ。スローモーションの場面は、やはり映画の中でも見せ場でもあり観客側でも感情が盛り上がる場面でもあるだろう。スローモーションによるドラマチックな演出は、二項対立の垣根を越えて感情レベルで一体化する効果をもたらすだろう。
ここで、最初の命題、なぜ私がこの映画にある「気持ち悪さ」を感じたに戻れば、この「感情の共同体のようなもの」の出現に原因があるのだ。他者の文化を尊重して、話し合えば、お互い理解できる、というPC的なポジションがこうしてあからさまに表象されることになる。
まあ、だからひどい映画だったというわけではないのだけど。私自身は結構楽しんで見た。他にも、この映画を西部劇と見るか、時代劇と見るか、など考えてみるのも面白いかもしれないと思う。