「この映画を見たい!」と思わせる文章(補足)

この間の日記*1で、私にとって蓮實重彦の批評は、「この映画を見たい!」と思わせるものなのだという主旨のことを書いた。これは私が日頃から感じていた印象論を記したにすぎないのだが、仲俣暁生氏のはてなダイアリーの「ぼくが映画を観ない理由」*2というエントリーにおいて私の印象とはまったく逆のことが書かれており、少し驚いた。
仲俣氏は、1980年代以降の日本の文芸批評の問題として、柄谷行人にせよ「蓮實重彦」にせよ、「論じられている対象の作品をいっさい読む必要がないくらいに、批評のテキスト自体がエンタテインメントとしてよくできており(そのエンタテイメント性は、論じれらるテクストが既知のものでなくても十分に機能した)、結果的に、批評を経由して作品へと向かう通路が閉ざされてしまったことじゃないか」と論じているのだ。
これは単なる主観のちがいという問題にすぎないのだろうか。仲俣氏は、あまり映画を見ないという。私はなにより映画を見ることが好きだ。そんな趣味の差が影響しているだけのことなのだろうか。
それとも批評というジャンルの構造的な問題なのだろうか。

阿部和重『ABC戦争』

阿部和重ABC戦争 plus 2 stories』新潮文庫、2002年6月
山形へ向かう新幹線のトイレのなかで、語り手は壁に落書きを見つける。無数の落書きのなかから、「適度な色気を得た「山形」と'YAMAGATA'」という文字を見つける――「ABC戦争」はこうして語り始められる。「ABC戦争」というタイトルが示唆するように、「文字」があるいは浮遊する記号が<アクション>=《跳躍》する、その過程をしめそうというのがこの小説だ。冒頭場面で語り手が語る「<Y>の悲劇」なる挿話。語り手は、<Y>という文字が視覚的にまた聴覚的に変容し、やがて自己同一性を失い、複数の自己を受け入れることになることを、現代思想のパロディのように語る。この妄想とも思える滑稽さと、ささいな出来事がやがてはとんでもな事件を引き起こす過剰性が阿部和重の面白さだ。

<Y>の「悲劇」がさらにその度合いを強める。なぜなら<Y>とは「ワイ」と読まれる文字であるからだ。音声化した<Y>は、記された文字それじたいからひき離され、「ワイ」が「猥」を喚起し、「猥褻」のイメージがあたりを満たすにつれ、「卑猥」な顔つきをしたものたちが「猥雑」に「猥語」を発しあう「猥談」でもりあがり、いつしか「猥本」を手に取り興奮してなにやら催し、いそいで公衆トイレに駆け込む。(p.11)

この連想ゲームのような文字=記号の「戯れ」を、「ABC戦争」が主題としている。それが、こうして冒頭で鮮やかにかつ滑稽に語られている。ここで重要なのは、こうした過剰な妄想が生れるのは、あくまで書かれた「文字」からであることではないだろうか。それは、この小説の語り手が、ある「手記」をもとに書いたものだったり、「手記」の筆者による語りを「メモ」したものをもとに書いた記録だったりする。書かれたものを別の書かれたものへと写す過程において、この小説の語り手が言うような<アクション>=《跳躍》が生じるのだろう。いわば、この小説はエクリチュールの運動そのものなのだ。
しかしながら、こうした文字=記号の戯れがある特定の文化内でしか通用せず、そしてそのことがテクストの世界を狭めることになるのかもしれないということが気になる。このことから、たとえば内輪に向けた内輪だけで楽しむ文学という批判も成り立たないわけではない。ここで、しょせん文学はサブカルチャーでしかないと開き直ってしまうことも可能だろう。阿部が、「山形」あるいは「YAMAGATA」という世界にこだわることと、テクストのローカル性の問題は繋がっているのだろうか?

ABC戦争―plus 2 stories (新潮文庫)

ABC戦争―plus 2 stories (新潮文庫)