千葉雅也『勉強の哲学』

◆千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋、2017年4月
『勉強の哲学』は腑に落ちるところが多い。勉強について考えたことがある人は、「そう、そう」とうなずくことが書いてある。
勉強は確かに際限なく進めることができてしまう。でも、それが勉強の罠であって、勉強をたくさんしているのに、満足いく成果が出ない一つの原因でもあるだろう。そこで、必要なのがいったん止まることだ。しかし、著者も「決断主義」という言葉で注意を促しているが、「もう、いいや」と完全に勉強をストップさせてはいけないのだ。あくまでも中断であって、終わりではない。勉強には終わりはない。動きつつ止まる。止まりつつ動く。イメージ的にはこのようなことであろうか。
アイロニーやユーモアといった言葉で、ものの見方を多様化する。これ自体は、それほど珍しい指摘ではないのだが、本書の優れた点はやはり「有限化」について明確に論じたところだ。アイロニーが完璧を求めてしまうという指摘も非常に有益な論で、これなどは「論文が書けない病」の一つの原因だと思う。勉強熱心で、努力をしているのに目立った成果が出せない人は、「有限化」ができないからなのだろう。
アイロニーとユーモアで動きつつ、あるときに有限化する。勉強とはこれだなと深く同意した。
あと、最後の補論がとてもよい。本書の執筆の舞台裏をくわしく明かしている。
『勉強の哲学』を読んでいると、苅谷剛彦の『知的複眼思考法』を思い出した。両書とも面白い。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

横光利一『旅愁(下)』

横光利一旅愁(下)』講談社文芸文庫、1998年12月
長く異国で生活していると、次のような「矢代」の言葉はとても印象的に響く。

「君、僕はいま非常に気持ちが良いのだよ。われながら興奮を感じるほど混じりけがないように思うんだが、これがいつまでも続いてくれればね。君はどうだった?」と東野は急に矢代の眼の中を覗き込んで訊ねた。
「僕もそうだったなア。しかし、一度そういうことが有ったと思うことは、なかなかこれが、大切なんだと思ってるんです。今でも僕は国境を入ってきたときの感動を、これは自分の鍵だと思って大切にしていますよ。」
「そうだろうね。もしそれを疑っちゃ、――」東野は暫く黙った。
「しかし、その鍵を疑うものは実に多いね。そ奴を知性だと思わして元も子も無くさせる非文化的な病いが世界中に蔓延しているんだよ。何ものの仕業か知らないが、こ奴にかかっちゃ、今にもう僕らは戦争をさせられるよ。世界中がじくじく腐って来たのだ。」(p.307)

矢代の言う「自分の鍵」がたとえ幻想だったとしても、日本に帰るたびにしみじみと感じるものだ。それをナショナリズムと呼ぶのかもしれないが、人間というのは不思議と、「国境」を入ったときに感動し、かつ安心するものなんだろう。

大澤真幸『ナショナリズムの由来』

大澤真幸ナショナリズムの由来』講談社、2007年6月
800ページを超える大著で、持って読むのがとてもつらい本であった。しかも、つらいのは本の重さだけでなく、その内容もである。
本書は、はっきり言えば、著者の読書ノートあるいはお勉強ノートといったもので、著者が読んだ本の内容をまとめ、感想をつけただけのもの。そして、最後はお得意の「第三者の審級」に結びつけるという、いつもパターンである。この内容で、800ページも必要ない。
読んで面白い箇所はたしかにあるのだが、それが実は別の本の内容だった、ということが何度もある。読みながら、何度がっかりしたことか。『ナショナリズムの由来』というタイトルなのだが、本書はナショナリズムのテーマと本当に関係があるのか、はなはだ疑問だ。著者には、一度「第三者の審級」というマジックワードを使わずに本を書いてもらいたいものである。

小川仁志『はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い』

小川仁志『はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い』講談社現代新書、2010年12月
政治哲学の諸理論をはじめての人にわかりやすく解説している。
タイトルから具体的なケースをきっかけにして、理論の解説をするのかと思ったが、さまざまな学者の理論をとりあげ解説するだけだった。
内容は面白いだけに、身近な問題から説き起こしてくれたらよかったのにと思う。

張競『海を越える日本文学』

「おわりに」のところを読んでいたら、三浦綾子はかつて東アジアで非常に人気があったと書いてある。ところが、日本では三浦綾子の文壇的評価が低かったという。芥川賞直木賞といった文学賞をもらっていないと。一方、同様に文学賞とは無縁の村上春樹は、メディアや批評家にもてはやされ、三浦とは異なる扱いを受けている。それはどうしてか? 著者は「村上春樹は欧米人に褒められているから」だと主張する。三浦は東アジアで人気があるとはいえ、欧米では認められていない。だから三浦の文学は「本物ではない」とわれわれ(著者を含めた日本人)は受け止めている。つまり、われわれは未だに欧米の影から一歩も抜け出せていないのだと著者は言う。
たしかに、村上春樹が欧米で評価されたことで、日本での評価もあがったのかもしれない。(調べていないのでわからないが。)また欧米の影響から抜け出せていないのも確かなことかもしれない。しかし、正直にいって三浦綾子の作品はそれほど評価できるものではないだろう。単純に作品の出来から見て、三浦は文壇的評価は得られないと思う。これは欧米の評価とは関係ない。

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』

古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』文春文庫、2008年5月
正直、ぜんぜん面白くない。
語り手の語り方に、まったく合わない。イヌに呼びかける語り方は、気持ちが悪い。そもそも、この語り手はいったい何なのか? イヌの内面に入り込んだり、20世紀の表と裏の歴史をすべて知っているかのような立ち位置といい、何様のつもりなのか。
文庫本には、「あとがき」がついているのだが、この「あとがき」の語り方が、小説の語り手と同じになっている。つまり、語り手の語りが、作者に憑依してしまっている。「冒頭の献辞は、脱稿してから書かれた。そして、わたしがこの本を捧げた人物は二〇〇七年の四月に逝った。これもまた現代史だ。/なあボリス、お前のことだよ。」(p.393)
これは、かなり気持ちが悪い。冒頭の献辞とは「ボリス・エリツィンに捧げる。/おれはあんたの秘密を知っている。」というものだ。これだけでも十分に気持ちが悪いのだが、「あとがき」の文章はその気持ち悪さをさらに倍増させる。「これって、イケテル表現だろ」という自意識が、小説の至る所から臭ってくる。もう、うんざりするし、がっかりもする。
それから、スピード感を狙ってのことだと思うが、文末表現を「る」形や「た」形の連続させ極端に単純化させているのだが、こうした小細工が、読んでいてただ不快なだけだ。
下手な小細工はやめたほうがいいと思う。変わったことをして目立とうとする高校生みたいで、これは単なる幼稚な小説としか思えない。

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

ベルカ、吠えないのか? (文春文庫)

野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』

◆野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』NHK出版、2003年9月
この手の本はいろいろ読んだので、以前読んだ類似本と内容がかぶる。良い文章を書く秘訣は、だいたいみんな同じなのだ。
本書のなかで、なるほどなと思ったのは、定型表現を遠慮無く使おうという指摘だ。この指摘は、他の類似本には見られない。普通、定型表現は避けるべきと考えがちだが、まずは文章の「型」を身につけることが上達の王道だという。あまりにも紋切り型表現を使いすぎるのは困りものだが、良い表現はストックしておいて、どんどん使っていくのは良いことだと思う。

うまい!日本語を書く12の技術 (生活人新書)

うまい!日本語を書く12の技術 (生活人新書)