大塚英志『初心者のための「文学」』

大塚英志『初心者のための「文学」』角川文庫、2008年7月

 ぼくが先に中上ら八〇年代文学は「ガンダム」のようだ、と記したのは「ガンダム」もまた八〇年代に「サーガ」化したからです。
 中上の熊野という現実の土地の上に築きあげた「神話的世界」とは、「僕」が「想像力」で描いてきた主観的な「地図」と本質的には同じだとぼくには思えます。「子供」の時間が終わり、「現実」が世界に侵入することに耐えかねた「子供」は「嘘」とわかっていても「地図」を作らずにはおれず、その「地図」はだからこそ「現実」が侵入しないようにひたすら拡大し、しかも緻密に作られる必要があるわけです。それをアニメの世界でやれば「ガンダム」、文学でやれば中上健次村上春樹村上龍ということになります。(p.255)

かつて批評家たちは、このような中上文学を「真の文学」と称し、中上の死とともに「近代文学は終わった」と言った。それに対し、大塚は「そこで持ち上げられる「文学」は、とうとう「主観による地図」しか描けなかったし、むしろ徹底的に空想の中にとどまろうとした「文学」のように思え」(p.255)ると批判する。
最終章の「補講」では、村上春樹の『海辺のカフカ』を取り上げる。ここでは、大塚は村上春樹を評価している。『海辺のカフカ』は、「物語作者が人を殺す表現を敢えて書き続けることの意味を作者自身が考え抜いた小説」(p.318)であるからだ。象徴と具体がセットである「世界」。大塚が追い求めているものは、これである。

 そこで人は現実には人を殺さず、しかし時には象徴的に殺し、そして生々しい返り血を浴び、成長していきます。物語が作中で人を殺し続けることは象徴的にそれが行われ続ける必要があり、そして、人はあくまでも象徴的に人を殺すのだ、ということの意味を考えるためにそれらの物語はあります。だから、村上春樹もぼくやぼくと同じように人殺しの原因と名指しされた作者たちもまた人殺しの物語を書き続けていかなくてはならないのです。世界が「現実」であり同時に「象徴」であり続けるために、です。(p.318)

正直、本書はあまり面白い内容ではない。「戦時下」だの「国家」だの、いちいち大げさに論じるのがつまらない。政治的に文学を読んでいっても、気分が暗くなるだけだと思う。

初心者のための「文学」 (角川文庫)

初心者のための「文学」 (角川文庫)

東浩紀+大塚英志『リアルのゆくえ――おたく/オタクはどう生きるか』

東浩紀大塚英志『リアルのゆくえ――おたく/オタクはどう生きるか』講談社現代新書、2008年8月
両者の言い分はなんとなくわかるけれど、なんだかなあという感じ。無駄に対立しているような気がしてならない。対立のための対立というか。そういう批評なんだと反論されればそれまでだが。しかし、ちょっとひどい。

水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』

◆『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』光文社新書、2007年10月
まあまあ面白い内容だけど、買って読むほどでもなかったなあ。

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

蓮實重彦『「赤」の誘惑――フィクション論序説』

蓮實重彦『「赤」の誘惑――フィクション論序説』新潮社、2007年3月
難しすぎて、ほとんど理解できず。

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

荒木浩『日本文学 二重の顔 〈成る〉ことの詩学へ』

荒木浩『日本文学 二重の顔 〈成る〉ことの詩学へ』大阪大学出版会、2007年4月

 エンデが言うように、すぐれた著作がなされるためには、〈外部〉の本質的な「内面」化が必要だ。たとえていえばそれは、ペルソナと顔が融合して、新しい顔、新しいわたしが誕生するようなものだろうか。外部の外面は、もともとのあなたの顔かも知れない。直面ということばもある。あるいは外に被った仮面が、内側の顔と付着してしまうようなものかも知れない。いずれにせよ、〈外部〉は〈心〉と溶け合って〈内面化〉されないと、本当の〈わたし〉には成らない。だから「現実」をそのまま写そうとしても、ろくなものは書けないのだ。(p.272-273)

似たようなことを、茂木健一郎が「クローズアップ現代」で言っていた。茂木の場合は、もちろん「脳」を通過させることで、文章が書けるということだったが。物を書くことにおける、〈外部〉と〈内部〉のインタラクションに興味が出る。

日本文学 二重の顔 (阪大リーブル)

日本文学 二重の顔 (阪大リーブル)

8月に読んだ本

福岡伸一生物と無生物のあいだ講談社現代新書、2007年5月
定延利之『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』ちくま新書、2008年7月

 たとえば談話語用論の考えによれば、文法はまさに会話から生まれ出るものである。話の中でくり返し現れる単語列が、やがてパターン(文型)という文法的な存在へと昇華する。私たちがしゃべるたびに、つなげてしゃべられた単語どうしがパターンに一歩近づく。つまり少しだけ文法化する。もっとはっきり言ってしまえば、現代日本語文法などという安定した「文法」、確固とした「文法規則」はフィクションでしかない。現実に私たちの目の前にあるのはただ、絶え間ない無数のおしゃべり、つまり「文法化」だけだ、ということになる。
 大変おもしろい考えである。その上での話だが、もしも「文法」(が仮にあるとして)の正体が、会話の中で現れる単語列の頻度にすぎない、とまで考えてしまうとしたら、私はなにか腑に落ちないというか、さびしい思いがする。(p.192)

村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫、1997年2月
村上春樹国境の南、太陽の西講談社文庫、1995年10月
筒井康隆時をかける少女』角川文庫、2006年5月
齋藤孝『人を10分ひきつける話す力』大和書房、2008年4月
◆佐々木瑞枝『外国語としての日本語――その教え方・学び方』講談社現代新書、1994年4月
→日本語の教え方について、ちょっと参考になる。良書。
◆佐々木瑞枝『女の日本語 男の日本語』筑摩書房、1999年6月
→退屈な本。男/女という対立を立てている点で、すでにダメダメ。
石原千秋『大学生の論文執筆法』ちくま新書、2006年6月
小谷野敦『新編 軟弱者の言い分』ちくま文庫、2006年11月
関川夏央二葉亭四迷の明治四十一年』文春文庫、2003年7月
◆柏木隆雄『人とともに 本とともに』朝日出版社、2008年3月
◆川口隆行『原爆文学という問題領域』創言社、2008年4月
→文学から漫画まで、「原爆」がいかに表象されてきたのか。問題意識も分析もすぐれていて興味深い研究なのだが、読了後、うーんと考え込んでしまう。この手の研究書を読むといつも感じるのだが、後出しじゃんけんなら誰でもじゃんけんに勝てるのだということだ。そうした批判はもちろん必要なのだが、それでいいのかという疑問も残る。表象分析の難しいところ。
内田樹『街場の中国論』ミシマ社、2007年6月
→良くも悪くもない。
◆宇佐美寛『作文の論理―<わかる文章>の仕組み―』東信社、1998年11月
→徹底的に無駄を排除した文章を目指す。論理的な文章を書くための本。無駄のない文章が書きたい人には良い。
◆江藤茂博『『時をかける少女』たち 小説から映像への変奏』彩流社、2001年1月

永井均『子どものための哲学対話』

永井均『子どものための哲学対話』講談社、1997年7月
語り口は子ども向けではあるが、内容は大人が読んでも十分面白い。「学校」的な道徳では決して語られないような重要なことが述べられている。
「友だちは必要か?」について、こう述べている。

人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?(p.63)

まったくその通りである。現代社会はコミュニケーション志向が強く、他人と繋がることに価値があるような風潮があるが、人と繋がらなくても人間は生きていけるのだ。コミュニケーションの安易な礼賛は毒になる。こういうことは、子どものころからしっかり学んでおくべきだと思う。

子どものための哲学対話

子どものための哲学対話