寺山修司『家出のすすめ』

寺山修司『家出のすすめ』角川文庫、1972年3月
「家」とは「ある」ものではなく「なる」ものだという。関係が相対的であるという考えは、今では当たり前になってしまったが、寺山の時代ではものめずらしい思想だったのだろうか。書かれた当時は、どの受容されていたのか。興味深い問題だ。
本書は「第一章 家出のすすめ」「第二章 悪徳のすすめ」「第三章 反俗のすすめ」「第四章 自立のすすめ」で構成される。「悪徳」とか「反俗」といっても、(今から読めば)特に過激なことが書かれているわけではない。読んでいてほのぼのとしてしまう内容だ。悪というのは、時代を経るとなぜか陳腐になってしまうのかもしれない。
ところで、面白いのは「悪徳のすすめ」のなかで責任について書いている箇所である。ここで寺山は、本当か嘘かわからないが、デタラメに電話をかけて、電話に出た人に夕刊に載っている事件を知っているか、その事件に責任を感じるのかなどを質問をしている。面白いいたずらだ。ここで電話に出た人々は責任を感じると答えていた。寺山は、それを愉快に感じている。自分が社会と連帯する責任を持っていると強く意識している時代。それを寺山は「一億総責任の時代」と言う。こうした時代に寺山は危惧の念を持つ。それは、寺山が絶えず追究している「個」の問題とも関連しているのだろう。

 わたしは、ここにいたってしみじみと孤独を感じないわけにはいきません。本当はあらゆることに「責任を感じている」人は、何一つとして責任を負わないことになってしまうのではないだろうか。そして、この幻のような社会意識は、きびしい孤立を媒体にしないかぎり、何の責任も無関係なムード的責任意識にすりかえられてしまうのではないだろうか、と心配になったのです。(p.124-125)

「自立のすすめ」の章の最後で、寺山は自由についてこう書いている。

「助けてくれ? って声は日に二、三度くらいは、必ずどこからか聞こえてくるわ! でも、そのうちのどれを選んで助けてやるかを選ぶくらいの権利はあると思うの。
それが自由というものなんだわ」(p.224)

このような「自由」を持った個人が、媒体となって人々は連帯する。あらゆることに責任を感じるのは、無責任へと転化してしまう可能性がある。だからこそ、何だったら責任を持つことが出来るか、逆に責任を持つことが出来ないか、私たちは選択しなければならない。こうした選択の自由を私たちは持っている。そして、この選択の自由を通じてはじめて、社会に責任を持つことが可能となるのだ。寺山はそう教えてくれる。