歴史は繰り返す

最近、もう一度一から近代文学の歴史を一から勉強し直そうと、文学史の教科書とか読んでいる。歴史は繰り返すとは、よく言われることだが、勉強してみるとやはりこれは真実をついていて、人間の面白さを感じる。
今から100年前というと1907年になるが、これは元号でいえば明治40年近代文学史では、明治40年代は重要な年代で、この時期に文学の諸制度が確立したといわれる。放送大学の教材である『近代の日本文学』のなかで、安藤宏も「近代小説百数十年の歴史の中にはいくつかの大きな転換点があるが、その一つが明治四十年(1907)を中心とする前後数年間であったことはまちがいない」(p.102)と指摘している。この時期は、ちょうど藤村は花袋を代表とする自然主義の文学があり、その一方で漱石が登場し鴎外も文壇に復帰するといった状況で、「文学思潮や流派の対立といった観点からでは必ずしも整理しきれない可能性が、この時期の小説には胚胎していたのである」(p.102)と安藤氏は述べている。
こうした指摘を見て、それから百年たった現代文学をめぐる状況は、明治40年代の文壇の状況と似ているのではないかとふと思った。もしかすると、現代の文学はたとえば純文学とライトノベルといった対立では整理しきれない可能性があるのではないかとも言えそうだ。
歴史は繰り返す――それは他にもある。たとえば、次の文章を読んでも何の違和感もないはずだ。

そのこういうものをこういう風に書くべきであるといふ教えは、昨今の新発明ででもあるやうに説いて聞せられるのである。随ってあいつは十年前と書振が変らないというのは、殆ど死刑の宣告になる。果してそんなものであろうか。Stendhal は千八百四十二年に死んでいる。あの男の書いたものなどは、今の人がこういうものをこういう風に書けという要求を、理想的に満足させていはしないかとさえ思はれる。凡て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那々々に変じて已まない。併し変じないという側から見れば、万古不易である。此頃囚はれた、放たれたという語が流行するが、一体小説はこういふものをこういう風に書くべきであるというのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説というものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。

「小説というものは何をどんな風に書いても好いものだ」という言葉は、よく耳にするものだ。この引用文は、森鴎外の「追儺」(1909)に出てくる。引用文は表記を少し改めてみたが、こうして読んでみると、この文章は現在の評論のなかに書かれていても全然おかしくない。現代の文芸評論は100年前に考えられていたことから少しも抜け出ていないのかもしれない。だから、「小説というものは何をどんな風に書いても好いものだ」なんて今時叫んでみても、それはどの時代でも言われていることで、何ら意味のあることを指摘しているわけではないのだ。このことは肝に銘じておいた方が良い。大事なのは、「どんな風に」書かれているのかを冷静に分析することだ。スローガンを唱えていてもだめだ。