知の考古学

もっぱら対立しているのは、依然として権力者(支配者)と民衆(あるいは庶民)なのだろう。
たとえば作り手を受け手の対立もその一つだ。ポストモダンは、作り手の一方的な作品支配に抵抗するきっかけになった。
あるいは、「歴史」と「記憶」の対立もある。「歴史」とは、権力者(国家)が自分たちの存在を正当化するために作られる物語である(「美しい日本」等)。その一方で、「記憶」とは庶民の日常生活のなかで生じるものである。であるから、サヨクは「歴史」を批判し「記憶」を重視する。最近の都市論はもっぱらこの傾向が強く、都市改革は庶民の「記憶」の破壊だと批判する言説は数多い。
だから、ナショナリズムは国家の「歴史」に繋がるので問答無用で批判される。しかし、たとえばストリートの記憶は、庶民の生活のなかから自ずと生じたものであるから、何が何でも守るべきものなのである。
もう何度も言っているが、再度繰り返させてもらえば、どうして民衆(庶民)のやることは良くて、権力者のやることはなんでも批判しなければならないのか。これでは、なんでも反対の社民党と一緒ではないか。なぜ、権力者の「歴史」はダメで、庶民の「記憶」は守るべき大切なものなのか。感情論的なレベルでは理解できるが(放っておくと権力は一方的に価値観を押しつけてくるぞ)、他に説得力のある説明があるのだろうか。(正直にいえば、権力も良いとは思わないが、かといって庶民の「知」がすばらしいとも思えない。)
このあたり、つまり「歴史/記憶」の二項対立について再考すべきである。