池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』

池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』トランスビュー、2003年3月
ずっと積ん読のまま放置してあったのだが、時間ができたので一気に読んでみた。

「哲学」という何かが、自ら考えるよりも先に存在しているわけではないのですが、哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解は根深く、あるいはそれらを「やさしく」解説したところで、やはり自ら考えられているわけではなく、さらには自ら考えているかのようで、単なる個人の人生観であったり、そんなこんなを見るに見かねて、とにかく人が素手で考える始めるその生の始まりを伝えるべく、このような教科書の形で書いてみました。(p.208)

「哲学入門」とか哲学エッセイの本を読むと、このように「哲学史を覚えることが哲学じゃない」とか「学説に詳しくてもダメ」といった文章がたいてい述べられている。これもクリシェの一つだ。いかに自分が他の本と違って、「自分で考える」ということをやっているかを強調し、差異化をはかりたいのだろう。
「自分で考える」というのが、本書の主張だ。何を考えるのかといえば、著書な言葉で言えば「存在の謎」である。「ある」ことの不思議について「自分で考える」ということらしい。
それはそれで良いとは思うが、内容は通俗的なモラルの範囲を出ていない。だから退屈なのだ。本当にそれで「自分で考える」ことになっているのかと大いに疑問が残る。読後、あとがきを読んで、本書もまた著者の人生観を吐露しただけの本ではないかと思った。

美しいと感じるもの、見えたり聞こえたりするそれらのものは、人によって全部違うけれども、それを美しいと人が言う時、その意味は、必ずすべての人に共通しているのだったね。(p.160)

こういう箇所を読むと、本当にそう言えるのかなと疑問を感じる。このあたりを深く考えないところが、この著者の弱点で、哲学的なセンスの無さを感じる。
人は一般的にどんなことを考えるのだろうかを知るのには、非常によい「教科書」だと思う。ただ、中学生や高校生が本書を読んで、「これが哲学なんだ!」とは思って欲しくない。その意味では、若い人に読ませたくない「教科書」でもある。本書を踏み台にするのはいいだろう。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書