山口仲美『日本語の歴史』

◆山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、2006年5月
奈良時代から明治期までの日本語の歴史を概観する。非常に面白い本。日本語が、これまでどのような変化を辿ってきたのか、よく理解できる。
日本語で、文の構造を明確にする動きが現れたのが鎌倉から室町時代にかけてだそうだ。古典の文法で係り結びを習ったが、この係り結びが衰弱していくのがちょうどこの頃。それにしたがって、たとえば主語を示す「が」が発達し、また論理構造を示す接続詞が現れてきたという。そもそも、係助詞は「主語であるとか、目的語であるとかいう、文の構造上の役割を明確にしない文中でこそ、活躍できるもの」なのである。したがって、係り結びの消滅と文の論理構造の明確化は深い関係があったのだ。

 係り結びの消滅は、日本語の構造の根幹にかかわる重要な出来事です。日本人が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったということなのですから。(p.120)

高校生の頃、係り結びを「覚えるのが面倒なものだな」としか思っていなかったが、日本語の歴史において重要なものだったのだ。
言文一致体の試みが何度も挫折しそうになりながら、尾崎紅葉の登場でようやく使えるものになった。この歴史も興味深い。
それまで「だ」調や「です」調などが試みられたが、どうもうまくいかなかった。尾崎紅葉は、文末に「である」を用いた。これが功を奏した。そして、紅葉の「である」に影響を受けて、作家たちはみな「である」で小説を書くようになっていく。
どうして「である」は、受け入れられたのか。「である」は、江戸時代の学者が講釈する際に用いられた公的な表現だった。明治になっても、ヨーロッパの書物の翻訳に用いられている。演説や講演など公の場で用いられるのが「である」であった。この性質が、他の文末表現ではできなかったことを可能にした。
というのも、「でございます」「であります」「です」「だ」といった文末は、直接読者に語りかけている印象を与えてしまうのだ。これらは、「地の文で客観的に説明したい時には、向かない表現形式」(p.204)だった。
一方、「である」は客観的な説明をするのに向いている。「彼はあの人が好きです」と地の文で書くと、「読者は直接書き手の判断を聞かされた感じ」になり客観的な描写になりにくい。だが、「彼はあの人が好きである」なら客観的な印象を与える。もともと「である」が公的な場で用いられていたからだ。「である」の登場によって、物事の説明や描写を客観的に行えるようになった。言文一致体は、地の文で客観的な説明を確保できずに苦労したのだが、「である」がこの問題を一気に解消したというわけなのである。「現実をあるがままに描写する」という自然主義の作家には、「である」調がうってつけだったのだ(p.203-204)。

日本語の歴史 (岩波新書)

日本語の歴史 (岩波新書)