問題は「硬直性」にあるのではないか

よくよく自分の心に照らし合わせて考えてみると、私自身の不安は、たとえば宮台真司氏が唱えるような「過剰流動性による不安」にあるのではない。むしろ、流動性と言われているのに流動的ではないところに不安がある*1。つまり「硬直性」の不安だ*2
これに対し、「歩行と記憶*3」ではもっと「過剰流動性」を進めるべきと述べていて、それはおそらく正しい。しかし、kuriyamakouji氏は「過剰流動性」のために、「自営」か「自営と変わらない働き」をしたほうがいいという。これは物事の半面しか見ていないのではないか*4
過剰流動性」よりも「硬直性」に不安を抱く私にとって、自営をしても不安は解消されない。自営に失敗して、別の道に進もうとしても「硬直性」のある社会では、その変化が難しい。過剰に流動的であるのなら、おそらく自営から会社員、さらに自営へと次々に移動できるはずだが、おそらく事はそう簡単にいかないのではないか。だから「硬直性」を問題にしているのではないか。会社が潰れるとかつぶれないとか、そんなものは不安の源泉ではない。kuriyamakouji氏ではなぜか、会社が潰れるとか潰れないといったことを「硬直性」としているが、ここは端的に「深夜のシマネコblog」の文章を誤読している。
さらに重大な問題がある。他人に依存しない思考を説くkuriyamakouji氏ではあるが、なぜか「過剰流動性」の考え方は宮台真司氏に依存している。さらに、「過剰流動性」を推し進める制度作りを「宮台さんのようなエリートたち」に任せ、自分たちはそこに繋がればいいという。他人に依存するな。
そもそも氏は仲正昌樹氏の本の読者にもかかわらず、他人に依存しない思考を唱えること自体おかしい。結局他人に依存しない思考など、無理なのではないだろうか。「女に依存しない」「他人に依存しない」思考の構築など独善的だし、ただの妄言としか思えない。
自分や知り合いのたまたま(運良く?)うまくいった例に出して、「だからあなたも頑張って」「頑張ればいい」という主張は、はっきりいって受け入れがたい。こういう「頑張り教」は社会問題から目を背けることになるのではと、いささかクリシェのような批判をしたい。これは「男」の問題だとか、あれは「女」の問題だとか、そのような縦割りの思考による硬直性こそ批判に値すると思う。「オレの価値はオレが決める。女に選ばれることによってオレの価値は決まらない」といった「生き生きした」言葉には気をつけねばならない。

*1:付記:2006年7月20日、NIKKEI NET:主要ニュース「経済格差の問題では、所得の不平等度を示す指標「ジニ係数」がOECD加盟30カ国の平均を上回る水準まで上昇し、相対的貧困率は米国に次ぐ2番目の高さになったと指摘。格差拡大の要因として高齢化やパートなどの非正社員の増加を挙げ、「正社員と非正社員という労働市場の二極化傾向が固定化する恐れがある」と警告した。」

*2:参照:「深夜のシマネコblog」http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html

*3:http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060712/p1

*4:というか、kuriyamakouji氏は、「深夜のシマネコblog」の文章を誤読している、あるいはきちんと理解できていないとしか思えないのだが。