芥川龍之介『奉教人の死』

芥川龍之介奉教人の死新潮文庫、1968年11月
いわゆる「切支丹もの」と呼ばれる作品。キリスト教という宗教自体に関心があったというよりも、「切支丹もの」で日本と西洋の文化の融合・対立を描こうとしたと言われる。また独特の言葉を用いることによって、一種のエキゾチシズムを醸し出す役割もあったようだ。
いくつか面白い作品があったのだが、特に「おしの」がいい。
おしのは、息子の病を治してもらいたいと南蛮寺の神父のところにやってくる。うわさでは、この神父は難しい病も治療するという。神父はおしのの願いを聞き入れる。おしのは、息子の命が助かるならば、キリストに一生仕えてもいいとまでいう。それを聞いた神父は、勝ち誇ったようにキリスト教の教えを説きはじめる。そして、神父はこう言った。

「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我我は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」(p.170-171)

この言葉を聞いたおしのは、なぜか神父を見つめている。しかも、おしのの眼には、「神聖な感動でも何でもない」「唯冷やかな軽蔑と骨にも徹りそうな憎悪」だけがあった。神父はあっけにとられ、何も言えない。そして、おしのは「まことの天主、南蛮の如来とはそう云うものでございますか?」と言い放った。

「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も敵の前に後ろを見せたことはございません。去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けました為に、馬はもとより鎧兜さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、「人の若衆を盗むよりしては首を取られりょと覚悟した」と、大声に歌をうたいながら、織田殿の身内に鬼と聞えた柴田の軍勢を斬り靡けました。それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木かけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう?(以下略)」(p.172)

こうして、おしのは神父に背を向け、寺をあとにしてしまう。茫然とする神父が残される。「切支丹もの」に限らず、芥川は最後の最後にどんでん返しのような落ちをつけることが多いが、この作品の落ちもなかなか面白いと思った。解説で、作家の小川国夫は「芥川は歴史を考えて、周到にリアリズムに徹しようとしています」(p.231)と述べている。なるほど、こういう受容の仕方が日本人にあったのかもしれない。「エリ、エリ、ラマサバクタニ」という言葉を、意気地なしの泣き言じゃないかというのは面白い。

奉教人の死 (新潮文庫)

奉教人の死 (新潮文庫)