保坂和志『生きる歓び』

保坂和志『生きる歓び』新潮文庫、2003年9月
この本には、妻の母親のお墓参りに出かけたときに見つけた病気の子猫を、付きっきりで看病した模様を語った「生きる歓び」と、田中小実昌が亡くなったときに、その交流を振り返り、そのことを綴った「小実昌さんのこと」の二つの作品が収められている。
「あとがき」のなかで保坂は、この二つの作品にフィクションが紛れ込んでいるとしたら、小実昌さんから家までの道順を訊くところだけで、他にはウソはないという。そして、「「小説」と言っているんだったらウソのあるなしにこだわる必要もないだろうけれど、今回の私はこだわる」(p.141)と書いている。「だったら小説ではないんじゃないかという意見もあるかもしれないけれど、私は小説であることにもこだわる。この二つの話はあったことしか書いていないけれど、それでもやっぱり明快に小説なのだ」(p.141)と断言しているところが、なんだか気になる。なぜ「明快に小説」なのか。保坂にとって、「小説/非小説」の差異はどこにあるのか。これは、保坂の他作品を読むときにも感じることでもあるが。
この「あとがき」の言葉を読んでしまうと、「小説」が何が何やら分からなくなるのだが、ふと感じるのはこの「あとがき」も実は「小説」になっているのではないかということだ。つまり、この本には、「生きる歓び」と「小実昌さんのこと」と「あとがき」という三つの小説が収められているのではないか。実際、「あとがき」にしては、やや長めの文章で、ここで語られているのは、「貢伯父さん」の思い出とその死についてなのだ。となると「あとがき」と、たとえば「小実昌さんのこと」の差異はどこにあるのか。このあたりの問題を、たとえば、「それは書き手やあるいは受け手の主観の問題、つまり「小説」だと思えばそれは小説で、「小説」ではないと思えば小説ではなくなるのだ」といった形で、私は納得したくない。保坂のなかにも、そして保坂の小説を読む私のなかにも、おそらく別々の形かもしれないが、言葉に対して行う「小説/非小説」のコミュニケーションがある。こうした言語と私たちのコミュニケーションのありようを追求したいものである。
保坂に関して、ひとつ補足しておくと、「生きる歓び」のなかにあった言葉すなわち「人間というのは、自分が立ち会って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ている」、「人間の思考はもともと「世界」というような抽象的でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が立ち合っている現実の全体から受け止めた感情の力なのだ」(p.16)といったところが注目に値する。「世界」ではなく、「自分が立ち合っている現実」に留まること。そしてそれを受け止める「感情の力」。これこそが、保坂の「小説」を創りあげるものであろう。「現実」ではなく「世界」のほうを語る言葉を「ご都合主義のフィクション」(p.16)すなわち嘘でしかないとする点が、保坂らしい。ご都合主義ではないフィクションこそが、保坂の小説だと言えそうだ。

生きる歓び (新潮文庫)

生きる歓び (新潮文庫)