松岡正剛『フラジャイル』

松岡正剛『フラジャイル』ちくま学芸文庫、2005年9月
本書は1995年に出た本であるが、「フラジャイル」すなわち「弱さ」をテーマにした内容は、今現在でもアクチュアリティを持っている。たとえば、こんな一節はどうか。

 定職がないことは、どうして世間の白い目の対象になるのだろうか。また、かれらはなぜひとしく「遊び人」というふうにみなされるのか。さらにいえば、定住がないこと、動きまわっていること、無宿であること、理解されにく仕事をしていること、正業についていないこと、これらはなぜ異端とみなされ、埒外者とみなされ、アウトサイダーとみなされ、ときにはアウトローとさえみなされるのか。(p.346)

これなどは、最近の「若者」と「労働」の問題に通じるのではないか。
また「知の全体」化を批判する、次の一節はどうだろう。

 こうした事例のいくつかを通して私が言っておきたいのは、じつは「知の全体」を標榜しようとすることは意外につまらないことなのだということだ。この警告は、「全体」を網羅しようとする意図にたいする警告でもあって、それは全世界を支配しようとする帝国主義にも、コングロマリットをめざす多国籍企業にも、敵対的株式取得をめざすITベンチャーにも、またいっさいの知識を記述管理しようとする大学主義にも、知の上部にたとうとする宗教主義にも向けられなければならなかった。(p.447)

「教養」主義的に傾きつつ私としては、こうした警告を受けとめておく必要がある。たしかに、「全体」を網羅しようとする意図が危険性を持っているというのは、その通りだと思う。私は、こうした危険性を注意しつつ、それでも「全体」を――不可能であるが――網羅しようとする意図そのものを棄てさることはできない。どうしたら、危険性を回避して「全体」への意志を貫けるか。その問題を考えてみたい。
本書は、さすがに松岡正剛だけあって、その博覧強記ぶりには驚かされる。文庫版の解説を書いた高橋睦郎も「人はしばしば松岡さんの興味の向かう範囲の広さに驚き、とまどう」(p.469)と述べているが、私も同じ驚きを感じた。本書は、編集の「知」とは何か、ということを示していると思う。それは、体系化に拒否という方法に現れるだろう。
松岡は、「弱さ」をテーマにした本書をどのように書くかという問題で、このテーマは「人間の内側にひそむ感覚や感性を重視するしかない主題」であるから、「論文に仕立てたり、論理を展開したところで、どうにもおさまらない」(p.461)という。「弱さ」は、そうした体系を拒否するところに「本質」があると。したがって、本書の特徴は、知の断片を提示することにある。おびただしい断片が提示されるが、それらが一つの体系へと収束する様子はない。この方法が好きか嫌いかによって、本書の評価は分かれるかもしれない。私は、様々な「知」の断片に魅了される一方で、けっきょく、それがどこに向かうのかがぼんやりとしているので、我慢ができなくなることもあった。
思うに、本書のような松岡の方法は、実は「弱さ」ではなく「強さ」なのではないか。「強さ」を批判し「弱さ」の可能性を見出す本書は、実は松岡氏が「強い」立場にいるからこそできたのではないかと、かなりこじつけめいた批判もしたくなる。近年のナショナリズムの動き、「下流社会」などの議論を見ると、弱者は「強さ」に依存してしまう傾向があるのではないだろうか。「弱さ」を弱いという点で肯定できるのは、強者からの見方でしかないのではないだろうか。そんな疑問が生じる。
また本書のなかでは、「弱さ」が「強さ」になることを提示していた。「弱さ」は「強さ」に接続してしまう。こうしたアイロニーに自覚的であったかどうか。
とはいえ、ただ断片を放り出しているだけではなく、「知」の断片同士の思いがけない関係性を見出そうとする本書は、「編集」の重要さを教えてくれるだろう。関係から生れる「知」の魅力を本書を示した力作である。

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)