阿部嘉昭『成瀬巳喜男』

阿部嘉昭成瀬巳喜男 映画の女性性』河出書房新社、2005年8月
著者は、成瀬巳喜男の映画の特質を「女性性」という言葉で表わす。ただし、著者は「女性性」と言っても、フェミニズム的観点から成瀬の映画を読み解くのではなくて、「作品の「組成」そのものに、「女性性」としか呼べない」(p.2)ものがあるのだという。成瀬巳喜男の映画、ひいては映画という「媒質」には「女性性」がまつわっているのではないか、というのが著者の考えである。
もう少し、この「女性性」について追いかけてみると、次のように説明されている。成瀬の映画が「女性的」であるとは、男性に抑圧されて苦しむ女性が描かれているということではなく、「中心性がつよくなく、しかも全体に調和がほどこされている画面の視覚性じたいを、女性性の本義からして、女性的と形容すべきかもしれない」(p.16)。したがって、男性性はこの逆で、つまり「中心性や位階を捏造する傾向」(p.16)のことだという。
こうした成瀬映画は語りにくい。語りにくいとは、言語化することが困難であるということだ。成瀬映画の各瞬間は、言語化=中心化作用によって捉えきれない。「女性性とは、言語化によって論理的調整のおよばなかったものの総体だといえる」(p.17)。成瀬の映画は複雑だが、複雑だと感じられない理由を、著者はこのような「女性性」にみている。映画には言語化の及ばない領域があるはずなのに、男性性はそれを言語化しようとし、平板な「物語」へと還元してしまう。成瀬映画の「言語化の難しさ」「脱中心性」は、このような男性性による平板化に対する、「含羞にみちた抗い」(p.18)なのではないかと著者は主張する。
このような観点から、成瀬の映画12本(『浮雲』『妻よ薔薇のやうに』『まごころ』『めし』『山の音』『晩菊』『驟雨』『流れる』『女が階段を上がる時』『乱れる』乱れ雲』)が論じられている。これら映画の分析は、蓮實重彦風の細部を積み上げていく分析なのだが、今ひとつ興味を引く分析にはなっていない。そもそも、この本のキーワードである「女性性」もおそらく内田樹なら「身体」と呼ぶものであるので、自ずと映画の分析は身体(身振り、表情)の分析が中心となるのは予想通りの展開だった。映像の詳細な分析は目を瞠るものがあるのだが。

成瀬巳喜男

成瀬巳喜男