デリダ『パピエ・マシン 下』

デリダ(中山元訳)『パピエ・マシン 下』ちくま学芸文庫、2005年3月
上巻は、メディア論が中心という感じだったが、この下巻は政治論が中心となっている。
キーワードは、「不可能なものの可能性」だろう。決定すること、責任、赦し、あるいは死が「不可能なものの可能性」を巡って論じられている。
たとえば、こんなふうに。

アポリアや決定不可能性の試練なしでは、決定も責任もありえないのです。(p.310)

すべてが既定の論理的理論的な帰結であれば、決定や責任などありえない。それはただの機械にすぎないという。
また、

「不−可能なもの」は欲望と行動と決定にその運動を与えるものであり、現実そのものの像なのです。(p.315)

ということだそうだ。
「赦し」においても、こう述べる。赦しには絶対的に生き生きとした記憶が必要である。赦すべきことを常に思い出しながら、緩和することなく再現しながらでなければ、赦しはできない。したがって、赦しうるものや、微罪や死に値しない罪のみしか赦さないというのであれば、それは赦しの名に値することを何もしていないことだ。「赦しうるものは、すでにあらかじめ赦されているのです。(p.382)」だから、赦しをしていない。赦しにはアポリアがあるのだ。そのアポリアとは、

人は赦しえないものしか赦すことがないのです。(p.382)

ということだ。こういう不可能性の可能性を、デリダは何度もくり返し述べていたことが強く印象に残った。

パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)

パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)