吉田修一『パーク・ライフ』

吉田修一パーク・ライフ』文春文庫、2004年10月
表題作である「パーク・ライフ」と「flowers」の2編が収められている。どちらも面白い作品だった。
パーク・ライフ」は、人体解剖模型に主人公が興味を示すことに代表されるように、人間の臓器が反復されているのが興味を引く。そもそも、「スタバ女」と呼ぶ女性と出会うのも、臓器移植の広告がきっかけであるし、主人公は留守番をしている「宇田川夫妻」の家でダ・ヴィンチの「人体解剖図」を読んだりする。そして、「スタバ女」との交流の舞台となる公園も「人体胸部図」のイメージと重ね合わされる。
都市と身体というモチーフは、たとえば有名どころで横光利一に代表されるモダニズム文学がある。とりわけ、横光の『上海』は激動の上海という都市をグロテスクな内臓のイメージで描き出した傑作だ。「パーク・ライフ」が『上海』と相通じているわけではないが、かなり強引に関連づけるとすれば、モダニズム文学の時代つまり1920年から30年代と「パーク・ライフ」の書かれた現代の二つの時代を「グローバリゼーション」の時代だと認識すると、この二つの作品を並べることにも少し意味が出てくるのではないだろうか。かなりこじつけめいているけれど。ともかく、ひとまず「パーク・ライフ」を臓器が主題である一種の身体小説だとは言える。
これがどういう意味を持つのだろうか。主人公と「スタバ女」がヒト組織を加工し売るアメリカの企業が急成長しているという会話している場面がある。その時、主人公はそのような会社が優良企業となり、この世に存在していることにリアリティを感じられない。

「でも、やっぱり不気味だな。なんていうか、世の中が進んで、だんだんそれが自然になったりしたら……」
「そう深刻に考えることないんじゃない」
「だって、なんていうか、たとえば俺の心臓だとか肝臓だとか眼球なんかも、いずれは他人の物になるんだって考えたら、なんだか自分のこのからだが、借り物みたいじゃないですか」
「借り物かぁ……、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身が私物で、外は共有だもんね」(p.68−69)

「スタバ女」の言葉は印象深い。外側には「個」があるのに、中身を透かしてみれば、実は借り物であったりあるいは共有物だったりする…。この会話をどう意味づけたらよいのか、今のところ分からない。今後おいおい考えてみよう。

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)