竹田青嗣『<在日>という根拠』

竹田青嗣『<在日>という根拠―李恢成・金石範・金鶴泳』国文社、1983年1月
面白い内容かと期待していたが、私の期待通りの内容ではなかった。もう少し読み応えがある本だと思っていたのだが。
映画『血と骨』を見て以来、この手の文学や映画に興味を持ち始めた。もっとたくさんの小説や映画を見ないといけない。とくに、「父」と「暴力」のテーマについて、それがこれらの文学や映画のなかで意味を持っているのかが知りたいのだ。
本書でも、「父」というテーマは「家」というテーマと並んで大きなテーマとして扱われている。「父」による暴力。たとえば、金鶴泳の文学では「父」がつぎのように描かれているという。

 金鶴泳の<父親>は、なによりまず兇暴な圧制者、専制君主のような相貌において登場する。彼はギリシャ神話の神々のように、異様な性格と心理と力を持っており、単に母親に対する圧制者であるばかりでなく、家族全員に対する圧制者でもある。すなわちこの男は、世間一般の父親のように家族を世の中の波風から守る保護膜として存在するかわりに、むしろ家族を彼の圧制の内側へ閉じ込め、そこから脱出することを妨げるものとして存在している。それだけでない。この男はしかもそういう仕方で<家>を代表しており、したがってこの男の運命はまた<家族>の運命でもある。このような父親の像こそは金鶴泳に固有のものであり、作家のあの病んだ自意識の場所から見られたいわば現象学的な父の像にほかならない。(p.171−172)

引用しながら気がついたのだが、たしかに暴力でもって家族を己の支配下に置こうとする「父」の像は、これは単に<在日>の文学に限らず遠く遡れば、神話や聖書の世界ともある意味共通するテーマなのか。「物語」の一つの形なのかもしれない。