本橋哲也『ポストコロニアリズム』

◆本橋哲也『ポストコロニアリズム岩波新書、2005年1月
ポストコロニアリズム関連の研究書は難解なものが多いのだけれど、本書は、そうした難解な思想をよく噛み砕いて説明しているので、ポストコロニアルの理論の入門書としてふさわしい本だと思う。
一章と二章で、1492年以降の植民地主義の歴史をたどった後、三章ではフランツ・ファノン、四章ではサイード、五章ではスピヴァクといったポストコロニアリズムでは欠かせない人物たちの思想を解説している。本書は、この三つの章がとても価値があると思う。そして、最後の六章で「日本」という場においてポストコロニアリズムを思想し、そして実践する意義は何かを問う。
ポスコロニアリズムの思想で、問題になるのはどういうことか。この手の本を読むと、しばしば出会うフレーズ(決まり文句)のようなものがある。たとえば、以下のような文章――。

異文化の出会いが相互に食人への恐れを噴出させるという認識に代わって、ここにあるのは一方的な観察の視線である。そのまなざしの下で、記号を保持して使用する者が恣意的に特定の記号によって指示される対象を、いわば暴力的に選びとるのだ。(p.30)

「一方的な観察」と言われるように、視線の非対称性は絶対に見落とすことができない。この一方的な視線の持つ権力をポストコロニアルの思想家たちは糾弾する。
それから、次のような考えもしばしば目にすることだろう。

ヨーロッパによる植民地化こそは、そのような人間主義の所産だった。ヨーロッパだけが「普遍的な人間像」の構築にふさわしい哲学や知識や学問を所有し、ヨーロッパ以外の知恵は普遍的ではなく局所的で限定されたものにすぎない。そのような知の支配的システムが被植民者に強制されることによって、先住民の生活から権利と文化的尊厳が奪われてきた。(p.161)

こうしたヨーロッパ中心主義を内側から食い破る方法として、スピヴァクは「脱構築」を用いるという説明の箇所だ。こうして分かるように、ポストコロニアリズムでは「他者」との出会い方、関係の築き方というものが重要な問題となる。「他者」は、けっして一方的に観察される対象でもないし、けっして劣った存在でもない。「他者」との出会いによって、われわれが自明に思ってきたこと、見えなかった影の部分をあぶり出す。「われわれ」と「他者」の交流の「場」、この「場」にこそ、ポストコロニアリズムの思想や実践が必要とされるのだ。
さて、そうしたとき、非常に重要なことを指摘しているのが、スピヴァクだと思う。本書のなかで引用されていた、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』の文章を引いてみる。

サバルタンの女性という歴史的に沈黙させられてきた主体に(耳を傾けたり、代わって語るというよりは)語りかけるすべを学び知ろうと努めるなかで、ポストコロニアルの知識人はみずから学び知った女性であることの特権をわざと「忘れ去ってみる(unlearn)」。このようにみずから学び知った特権をわざと忘れ去ってみるということはポストコロニアルの言説をそれが供給しうる最良の道具を用いて批判するすべを学び知るということをこそ意味しているのであって、ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない。(p.167*『サバルタンは語ることができるか』p.74)

このあたり、知識人(であるスピヴァクも含めて)の特権を強く意識しているという点で、私はスピヴァクの思想に共鳴する。本橋氏も「スピヴァクのポストコロニアリズムという思想の構えが集約されている」と評している。ここの引用のなかで、もう一つ重要だと思うのは、最後の部分つまり「ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない」という考えである。
このスピヴァクの考えを、スピヴァクエピゴーネンたちはどれほど真剣に捉えているのだろうか。私の思いこみかもしれないが、ポストコロニアルといえば「植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置」してしまうケースが多いのではないか。植民地化さえされなければ、支配さえなければ、永遠の楽園がずっと残ってきたはずなのにという幻想の存在を、ポストコロニアル関係の論文を読むとしばしば私は感じてしまう。もちろん、こうした幻想はスピヴァクの考えとは異なるはずなのだ。
たとえば、本書の第六章を読んでみよう。ここでは、「日本」という場をポストコロニアリズムの視点からの読み直しを試みている。その中で、アイヌの歴史が取り上げられている。「日本」による侵略のなかで、それでもアイヌの歴史や文化を営み続けている、たとえば知里幸恵アイヌ神謡集』(1923年)、違星北斗の遺稿『コタン』(1930年)、バチラー八重子『若きウタリに』(1931年)、知里真志保『分類アイヌ語辞典』(1953−62年)といったものは、日本語でアイヌの文化を表現することで「日本文化そのものに亀裂」を入れると述べられている。
そして、これらの業績はいずれも「近代国民国家進歩史観に対し、支配的な言語で書かれた歴史だけが歴史ではないことを私たちに教えてくれる(p.195)」とし、国家による公式の歴史の抑圧を告発するものだという。
ここまでは、私も納得できる。問題は次の箇所である。

アイヌにとって歴史とは、文字で書かれた歴史と口伝えに伝承された歴史との二項対立を越えたところに存在する、いわば自然との対話と言ってもよいものではないだろうか。一木一草に歴史が存在し、熊や鮭や花や星が歴史を語り、海川や岩石が歴史を保持するような世界がそこに広がる。植民地主義が排除してきたそのような歴史のとらえ方を、いま私たちはポストコロニアルな自己と他者との出会いを探究するなかで迫られているのではないだろうか?(p.195)

スピヴァクの読解をした後で、どうしてこうしたユートピア植民地主義に代置しようとするのだろうか。本当にスピヴァクの文章を読んだのかと疑いたくなる。こうした単純な図式を示すことがポストコロニアリズムの思想や実践ではないと思う。少なくともスピヴァクの思想からは、こうした考えは出てきそうもないのだが…。知識人には、なぜかマイノリティに過剰な幻想を抱く傾向があるように私には思えて、それゆえにカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムを全面的に認めることができない。しかし、スピヴァクだけは単純な幻想を持っていない。他の知識人たちよりも一歩先の認識を持っていると思う。この点において、私はスピヴァクを信用することができるのだ。

ポストコロニアリズム (岩波新書)

ポストコロニアリズム (岩波新書)