阿部和重『無情の世界』

阿部和重無情の世界新潮文庫、2003年3月
「トライアングルズ」「無情の世界」「鏖(みなごろし)」の3つの短篇が収められている。どれも面白い作品なのだが、この3つのなかで特に興味を引いた作品は「鏖(みなごろし)」だった。
主人公のオオタが、ひどく厄介な出来事に遭遇する一日を描いたこの短篇。オオタは、浮気をしている自分の妻を監視カメラで観察して、浮気の決定的な証拠をつかもうとしている男とファミレスで出会う。その男の情けない話を聞かされたオオタは、自分なら半殺しにしてやると男をけしかけてしまう。オオタの煽りに逆上した男は、監視カメラの映像を映している液晶テレビをオオタに渡し、今まさに妻が浮気をしている現場へと向かう。そして、ファミレスに残されたオオタは――。

彼(*オオタ)は、自分にとっていま最も重要なものを、隣のヒロタに気づかれないようにして、見てみることにした。つまり、自分がテーブルの陰に隠しもっている、液晶のテレビ画面を。しかし、真っ黒で何もわからず、電源が切れてしまったのだろうかと、彼は思った。ところがそうではなかった。数秒後、画面が明るくなったかと思うと、そこには顔中を黒い液体で濡らしたような男の顔が大写しで映し出され、それが画面外に消えると今度はリビング全体の光景になり、スーツ姿の男が、素っ裸の女を、長い鉄の棒のようなもので滅多打ちにしている様子が、はっきりとわかった。むろん画像は不鮮明なものではあったが、オオタの記憶にはっきりと残された、あの男の予告の言葉が、映像の見えにくい部分を補い、一つの完璧なイメージに仕立て上げていた。(p.182)

この部分に、阿部和重の小説の基本的な方法があるのではないかと思った。まだ漠然としか考えが浮かんでいないのだが、こういうことである。不鮮明な映像がある、そこに自分の記憶ないし欲望つまり「内面」を投射することで不鮮明な部分を補う、そうすることによって「完璧なイメージ」を作り出す。そしてそれを再び自分の内部に取り込むことで妄想が肥大化していく。阿部和重の小説では、ささいな出来事がとんでもなく大きな出来事へと《跳躍》してしまうというのが一つのパターンとしてあるが、それはこのように自分が、自分自身の「内面」を取り込んでいくことで成り立っているのだろう。とりあえず、そのようなことを考えてみた。
「トライアングルズ」はいわゆるストーカーをモチーフにした小説。「無情の世界」は、いつも暴力に見舞われてしまう少年が性的快楽に逃避するのだが、その行為は厄介な殺人事件に絡んでしまう(かもしれない)物語。そして、「鏖(みなごろし)」は上記のようにオオタの不幸な一日を描いているわけだが、おおざっぱにまとめてしまえば、3つとも語られていたことが、いつしか語り手自身の身にも降りかかってくるという点で共通していると思われる。こうした自己言及性、メタ小説といったことは、最近では特に珍しいものではないので、これをもって阿部の個性だとするわけにはいかない。
阿部和重の小説の語りの特徴、すなわち語りの重層性(それは「トライアングルズ」で特に顕著だと思う)などは、もっと細かく分析してみたいものだ。阿部和重のテクストの形式は、いかなる効果を生んでいるのだろうか?

無情の世界 (新潮文庫)

無情の世界 (新潮文庫)