『鏡子の家』

三島由紀夫鏡子の家新潮文庫
しばしば『鏡子の家』は三島の失敗作と評価される。発表当時、肯定的な評価をしたのは奥野健男*1ぐらいで、たとえば平野謙は「作品として破綻」したと言い、江藤淳も「これほどスタティックな、人物間の葛藤を欠いた小説もめずらしい」と批評していた*2。ただし三島自身は傑作だと思っていたらしく、否定的な評価にかなりショックを受けていたと言われている。
私の評価としては、これはかなり面白い良くできた作品なのではないかと思う。同じくらいのページ数の『禁色』と比べた場合、私には圧倒的に『鏡子の家』のほうが面白い。『禁色』の評価は高くて、『鏡子の家』の評価が低い理由が私には理解できない。発表当時はともかく、ポストモダンをあるいは高度消費社会で生きる/生きた私には、『鏡子の家』のほうが「リアル」な物語に感じるのだが。
そもそも物語が、「欠伸」から始まるのも読者を皮肉っていて面白い。これから相当長い小説を読むと意気込んだものの、いきなり登場人物たちが「欠伸」をされていては、読む側の意気込みが脱臼させられるというものだ。
物語は「終らない日常」のなかで、「現実」を感じることのできない青年たちを中心に展開する。世界が崩壊してしまえばいいと思うが、登場人物をとりまく「世界」はそうやすやすと壊れない。その一方で自分が存在しているのかしていないのかという不安にじりじりと駆られている。そうした実存的不安を持つ人間たちが、友情とも愛でもなく、「鏡子の家」にやってくる。
そんな存在の不安を抱えた男の一人、画家の夏雄が神秘思想に目覚めて、修行するもそれに挫折。そんな状況のなかで見つけた「水仙」の花によって「現実」感を取り戻すという挿話は、「サイファ」みたいな話に思えてきて、だからこそ「現代」的な物語だと思うのだ。
しかしながら、その時代背景に朝鮮戦争という影があるのは見逃せない。作中、しばしば<アジア>が言及されることになるが、鏡子たちの生活あるいは日本の退屈な日常生活が<アジア>によって支えられているように思える。三島の小説にはしばしば<アジア>の影が見られる。三島と<アメリカ>と同時に三島における<アジア>も考える必要があるだろう。

鏡子の家 (新潮文庫)

鏡子の家 (新潮文庫)

*1:三島由紀夫伝説』新潮文庫を参照せよ

*2:参考、松本徹『年表作家読本三島由紀夫河出書房新社