似ている部分があると思う

大塚英志『物語消費論』角川文庫
今週は、大塚英志の本ばかり読んでいる。人それぞれ感じ方は異なると思うが、私には、大塚の文章はすごく読みやすい。大塚の文体のリズムと私の読むリズムが、うまくかみ合うことが多いということだろうか。人によっては、大塚英志の文章は読みにくい!と言うので、決して大塚の文章が優れたものというわけではないのだろう。ともかく、大塚の本は読みやすいので、スランプの時とか、どうしようもなく何も手がつかないというような精神状態の時に読むと、さらさらっと読み終えることができるので、ちょうど良い気分転換になる、というわけなのだ。個人的に、大塚の「思想」というか批評にも関心を持っていて、ずっと追跡しようと思っているという理由もあるのだけど。
この本は、大塚の評論の中でもけっこう有名なほうだと思う。「ビックリマンシール」を仕組みを分析し、子どもたちが「物語」を消費することに夢中になっていることを示したものだ。断片化された「物語」から、ちらりとかいま見ることができる「大きな物語」。大塚の言葉で言えば、「大きな物語」は「世界観」にあたり、断片化された物語は「趣向」ということになる。この「世界観」さえあれば、あとは「趣向」をとっかえひっかえに物語を産み出すことが出来るようになる。それは、作り手と受け手の非対称性が崩れたことを意味するだろう。一人で物語を産み出し、それを消費することが可能になったのだ。これが、<モノ>という記号と戯れる消費社会の「終末の光景」なのだと述べていた。
大塚は民俗学を専攻していたので、こうした消費社会分析や評論に民俗学を応用するのだけど、この「民俗学」という方法もどこか精神分析と似て怪しさを時折感じる。メモをしていなかったので、記憶違いかもしれないが、大塚自身も何かの本で、民俗学の危うさを書いていたように思う。その危うさというのは、民俗学のタームを用いると、けっこうなんでも説明できてしまうということだ。精神分析でも、同じように専門用語を使うとうまく説明ができてしまうということがある。マジックワードのように精神分析民俗学のタームを使うことで、文学や文化を読み解くが可能なのだ。ある社会現象に対して、これは民俗学で○○と言われるものだよ、とか説明されると「なるほど、そういうことか!」と一見現象の本質を理解したようになるけれど、それがあまりにもうまく当てはまりすぎて逆におかしいと感じてしまう。うまい説明ほど、あやしいものなのだ。
それは、80年代にマーケティングにおいてこうした「知」が利用されたということとも関わっているのかもしれない。今、盛んに産学協同とか産学提携といったことがひどくもてはやされているけれど、ニューアカの時代のような結果にならなければいいなあ。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)