大塚英志の「天皇」論

大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』角川文庫
大塚英志の「天皇」に関する文章をまとめた文庫本なのだけど、通して読んでいくと大塚の「天皇」観の微妙な変化が分かって面白い。
ところで、こうした本が一冊できるということは、大塚英志もところどころで、「天皇」について語っているではないか。というのは、昔、大塚英志は「天皇」論をずっと回避している、などと知ったかぶりの発言をした大学の先生がいたからだ。その発言を聞いたとき、そうだったかな?と私は半信半疑だったのだけど、その後、この本を見つけて、「なんだ、「天皇」論、ちゃんと書いるじゃん」と、その研究者のいい加減さを知った。要するに、大塚英志の本を読まずに、印象だけで語っていたのだ。研究者としてあるまじき行為!!
とりあえず、大塚英志の考えがよく理解できる箇所をメモしておく。

ぼくは「国家」に対する政治的主体を獲得するために「天皇」のみならず「日本」やあるいは「日本の伝統」といった「国民国家」を演出してきたナショナルなものの表象もまた批判の対象に曝されるべきである、と考える。表象をすべて剥ぎ取った、政治システムでしかないただの「国家」を私たちは再発見し、そこに個々人(つまり「主権者」として)コミットし、あるいは運営のあり方を批判していくことが必要だ。「国家」に、ひ弱な「私」を託している限り、私たちはただの政治システムの単位に過ぎないはずの「国家」を責任主体としてコントロールできないのである。「国家」に「私」を同一化するのではなく、個々の政治的主体として「国家」に関与する「成熟」こそが必要だと主張したい。(「あとがき」p.272、2003年6月)

このへんは、先に読んだ『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』のなかで述べられていた「公」についての文章と同じ内容だと思う。なんとなく「国家」を存在させるのではなく、そこに「私」の手を加えること、個々人は、そのような政治的主体性を持つことがいつも主張されている。
「私」の重視という点においては、香山リカと共通する点もあるのかもしれない。
最近は、主体性への批判も出ているので、この議論は注意しないといけない。