江藤淳とサブカルチャー

大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後』ちくま学芸文庫
この本は、『サブカルチャー文学論』と兄弟のようなものだ。なので、『サブカルチャー文学論』が分厚すぎて、読む時間がない人は、こちらの本を読めばよいと思う。私は、『サブカルチャー文学論』をたのしく読んだので、『江藤淳と…』も面白かった。大塚英志という評論家は、好き嫌いの分かれると思うのだけど、ときどき面白い視点をもたらすことがあるので、私はそれほど否定的に捉えていない。要は、使えるものはどんどん使ってみよう、という感じだ。
この江藤淳論も、けっこう私には参考になる。大塚英志が言うに、江藤淳から学ぶべきものは、「歴史の語り口」だそうだ。どういうことかと言うと、「「歴史」と「私」との間に生じる軋みを受け止め、執拗にそれを記述しようとする態度」ということだ。
江藤淳にとって、「日本」は「何となくかうなつてしまつた」(丸谷才一)というものではないらしい。そこには、「さまざまな要因の堆積」がによって成立したという認識がある。こういうものが「歴史」なのだろう。この「歴史」と「私」の体験が軋む。この「軋み」を身体のレベルで記述しようとしたのが江藤淳という批評家であった、ということか。
「大文字の歴史」でもなく、極「私」的な体験の語りでもなく、その両者が「軋み」という形で実感される場を語っていたのだという。そうすることで、「仮構」としての「大文字の歴史」にかろうじて「意味」を与えていた。
「何となくこうなつた」と現状を追認するのではなく、「私」をそこに介入させることで、「大文字の歴史」と「私」との連続性を引き出そうとしているということだろうか?これは、大塚英志憲法を自分たちの手で書くということと、どこか通底するのかもしれない。
最後に大塚が「公」について、次のように記している。

「公」とは「私」を特権的に制限するものではなく「私」と「私」が出会い、リアルに利害を調整し、合意を産み出す場を言うとぼくは考える。そのための手続きや場である「公」を、何も考えず「私」が従えばいい帰属先とすりかえてしまうことはやはり間違っている。「公」の意味が問われないまま「公」に従うことのみが求められてはならない。(p.230)》

現代の「公」についての言説として、とても興味深い。ここを手がかりにさらに他の本を読んでみなくては、と思う。