社会学を学ぶ

◆デュルケム『社会学的方法の基準』岩波文庫
社会学的…』は、ところどころ分からないところがあって、スムーズに読むことが出来ず、読み通すのに苦労した。特に難解な内容の本というわけではなかったのだけど。私が、社会学関連の本を読むのが下手なのだろう。なにせ独学で勉強しているので、おかしな読み方や、概念の勘違いなどをしているのだろうなあと思う。
そんな恥ずかしさに負けずに、読後のメモを記しておく。
この本の主要な命題の一つに、次のようなものがある。

社会現象は物であり、物のように取り扱わなければならない(p.90)

デュルケムは「物」を観察することを絶えず強調する。ほかにもこんな一節もある。

人間の一傾向もまた、一つの物である。したがって、われわれがこれを有益なものと評価したところで、それだけでおのずとこの傾向が構成されたり、変容されたりするわけではない。それは固有の性質をそなえたひとつの力なのだ。(p.192)

デュルケムが、この本で論じていたのは、社会学をいかにして「科学」とするか、ということだ。社会学を科学として認めさせようとする姿を見られる。では、そのためにはどうするべきか?デュルケムは、社会学から心理学を切り離そうとする。社会現象を個人の心理つまり主観でもって説明するのは、科学としての社会学ではない。

そこで、われわれは以下のような基準に到達する。社会的事実の決定要因は、個人意識の諸状態ではなく、それに先立って存在していた社会的諸事実のうちに探究されなければならない。(p.218
社会的事実の機能は、それがなんらかの社会的目的とのあいだに維持する関係のうちにつねに探究されなければならない。(p.218

あくまで物=客観を観察し、そこから結論を見出さなければならない。「物」の重視は、ここに原因がある。というわけで、デュルケムは言う、

筆者の方法は客観的である。それはあげて、社会的事実は物であり、物のように取り扱わなければならないという観念によって支配されている。(p.265)

そして、繰り返しになるが、客観的な研究を目指すのは、社会学は一つの独立した科学であることを証明するためだった。

社会学は、他のいかなる科学の付属物でもなく、それ自体明白な自律的な一科学なのだ。社会的実在がそれ特有の性質をもっているという感覚は、社会学者にとってきわめて不可欠なものであり、とくに社会学的な素養のみがこの感覚を社会的諸事実の理解へと適合させていくことができるのである。(p.267)

こうしたデュルケムの方法には、当然のことながら批判があった。訳者が、詳細な「解説」を載せているので参照してみる。
たとえば、デュルケムが重視する「物」について。この言葉を観察予見性の意味として用いている時は良いが、これが社会的事実の性質そのものに関するような意味合いで用いられている時は危ないらしい。残念ながら、そのような使いかたをデュルケムがしていると訳者は指摘している。
また、デュルケムには、「社会的事実を、「物」という側面で自然科学の扱う諸事実と同一視する傾向」があるという。それによって、社会学的認識の客観性についての考え方が、比較的素朴なレベルにとどまってしまう。したがって、「観察主体がおのれの先入見や予断をつとめて排除し、虚心に対象にせまっていけば、おのずと客観的な対象把握が可能になろうという考え方」=「デカルト的楽観主義(L・ゴルドマン)」(p.293)という指摘もまた私は頷ける。
この本を読むと、社会学的な考え方をつかむことが出来る。何をどうやって分析し論じるのか。批判的に読むと勉強になる本だ。