リベラリズムの可能性と限界

稲葉振一郎リベラリズムの存在証明』紀伊國屋書店
昨日は読み終えることができなかったけど、ようやく全部読み通す。全部430ページもあり、しかも議論が充実しており、読み続けていると頭がクラクラすることもしばしば。でも、こういう本は好きだ。こういう本を、いつかは自分でも書きたい。
と言ったものの、相変わらず内容をしっかりと理解できたのかどうか、自信がない。

一人一人の個人の存在のかけがえのなさ、本書では「魂」なる語で表したが、それを尊重し擁護する政治構想として私は「自由主義」の名で呼ばれる伝統に注目し、その可能性を検討してきた。(p.427)

そうそう、たしかにこういうことを様々な本との対話、そして思考実験などと通して議論していた。リベラリズムの可能性、そして限界。出来ることと出来ないことは何か、ということ。
私が面白いと感じた箇所は、「魂」について論じた第2章の「「私」の固有性とはなにか」だ。ここでの対話の相手は、永井均の論だ。
それから、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を取り上げ、最小国家論を検討した第6章。以下、リベラリズムと「悪」の問題を論じた第7章や第8章は、SF小説を読んでみる気分になってきて、かなり面白かった。実際、『一九八四年』が議論に取り上げられている。
以下、メモ。

「不可視の権力論」においては多くの場合、欺瞞され操作される以前の真の主体性といったものが想定される。問題は、その「真の主体性」が本当に真のものなのか、なぜそれが真のものだと言えるのか、誰にそのような判断をする資格があるのか、である。もちろんフーコーの場合にはこれらの問題は生じない。しかしたとえばマルクス主義精神分析においては、それはきわめて重大な困難となる。(p.414)

この箇所は、とても重要な指摘だと思った。見えない「権力」が、私たちの生を脅かしている。私たちの真の生を取り戻すために、見えない「権力」をあぶり出せ、としたとき、その背後には、何物にも歪められていない、純粋な「主体性」を想定しがちであること。「本当に真のものなのか、なぜそれが真のものだと言えるのか、誰にそのような判断をする資格があるのか」という疑問は絶えず頭に置いておいたほうがよい、と思う。