読まれる文章を書きたい

永江朗『<不良>のための文章術 書いてお金を稼ぐには』NHKブックス
ひどく暑いので冷房の効いた本屋をぶらぶらしていたら、この本を見つけた。「書いてお金を稼ぐには」というサブタイトルに引かれたのだ。プロのライターになる方法が知りたかったので。
さっそく買って最初のほうを読んでみたが、けっこうどころじゃなくて、かなり面白い。良い文章を書くためではなく、どうしたら書いた文章がお金になるか。そのことに集中している。つまり商品としての文章を書く術を指南する本なのだ。で、その商品としての文章、すなわち読まれる文章を書くには、顧客本位に立つことが強調されているようだ。顧客、つまりこの場合もちろん読者のことだ。対読者意識が、アマチュアとプロの違いらしい。

マチュアの文章が「書き手」から発想するなら、「読み手」から発想するのがプロの文章です。「読み手」にとって役に立つ情報は何か、「読み手」は何をいちばん知りたいか、から考えるはじめます。(p.33)

「読み手」から発想する文章術。これは、役に立ちそうだ。
ところで、文章術といえば、『青春の終焉』にも役立つ箇所がある。たとえば、こんな箇所など文章術として参考になるのではないだろうか。

太宰治はしばしば含羞の人と形容されたが、含羞は恥を語ることによって醸しだされるわけではない。文体から漂うのである。文語への恥じらいが口語を誘い、その口語を押し退けてでも強く語らねばならぬことがあって、再び文語が顔を出す。強弱緩急こそ語りの秘訣だろうが、太宰治はこの語りの技巧を、口語と文語、二つの次元を巧みに往還することによって、文章のなかに取り入れたのである。(p.208)

太宰は落語家である、なんて三浦氏は言い、落語と近代文学の関係を論じるあたり私はすごく興味を持つ。ここでは文語と口語の組み合わせが、太宰の語りの特徴として指摘されているわけだけど、この技巧は同時に文章術として役に立つのではないか。
たとえば、私の場合、プライベートでは日々日記を書いているけれど、一方で学位を取得するために論文も書く。自分でも不思議なのだが、論文を書くときの文体と日記の書く文体は、必ずしも一致しない。
まあ、私の場合、振りかえると日記でも論文のスタイルで書くことがある。このあたり、ちょっと意識して方法化してみようかなあと思う。つまり、学術論文のような文体と日常生活というかプライベートで用いるような砕けた文体を組み合わせて日記を書いてみたら、少しは面白いスタイルが出来るのではないか。今でも充分そういう風に書いてはいるけれど、(←こんな風に)これを太宰ぐらいにまで洗練させたら一つの特徴ある「個性的」な文体として認めてもらえるかも?