雑誌を読んで

中央公論』2004年6月号に、綿矢りさ関連の記事を見つけ、さっそく読んでみる。
一つは、筒井康隆「文壇で「モーニング娘。」を作ってどうする 滅びゆく文学は世代交代では救えない」。もう一つは、矢幡洋「『蹴りたい背中』にみる若者世代の集団文化」。
筒井康隆は、綿矢りさ批判というより、文学をめぐる状況そのものへの苛立ちを相変わらず述べている。つまり、売れれば良いという出版社などの姿勢だ。売れれば良い、というのでは、これまで築いてきた文学の遺産を食いつぶすだけだ。文学は何がなんでも守らなければいかん、という。
ちょっと小説を読んだくらいで、作家としてデビューするな、名作を読んで、きちんと文学の基礎を身につけろ、とそんな感じだった。「文学修行は一生、文学の読者であることも一生」ということらしい。気持ちは理解できるのだけど、ちょっとロマンチックすぎて、現実的ではないのかなあと。文学を守るというときの、「文学」が疑問視されているのだから。
もう一つの『蹴りたい背中』についての論は、イマイチな内容かなあと。「『蹴りたい背中』は、同世代の群れから排除されたアウトサイダーの物語である」というのが論者の主張だ。主人公の友人のような人たちを、「自分に自信がなく群れることによって安心感を得ている」とするが、自分に自信がないのは、主人公のほうなのではなかったか。主人公の周りの人たちが、本当に他者依存的な群れたがりだったかなあと疑問に思う。
この『中央公論』には、武田徹「戦場で人質となったジャーナリストの幻想」という論文が載っていたが、これは面白い内容だった。ジャーナリズムの現状への怒りから始まる。「ジャーナリズムが、真実を世界の人々に広く知らせる使命を帯びた公共に奉仕する特別な仕事」だと考え、「ジャーナリズムの公共性が正しく認識されていれば、直接の攻撃対象にはならないと考えがちなのがジャーナリストという人種ではないか」と批判している。ジャーナリズムの持つ肥大化した幻想へ疑問を投げかけていて、なかなか鋭い指摘だと思った。