国際化、グローバル化をテーマにしたシンポジウムが、一種のブームで、ここ数年どこかで毎年行われている。日本文学研究でも、最近では研究の国際化を主張する人もいて、国内だけでなく海外にも研究を発信すべきだと言われる。もちろん、海外の研究者と交流することは良いことだと思う。発信可能な研究者はどんどん発信して、海外の日本文学研究を刺激するのも良い。
しかし、国際化とかグローバル化と言った場合、想定される地域は、たいていアメリかせいぜいヨーロッパあたりだろう。結局、未だに日本が基準として求めるのは西洋でしかない。つまり、西洋の基準において、評価されることが求められ、その地域で高い評価を得られれば国際的な研究者と呼ばれることになるのだ。実際のところ、評価のグローバル化というものが進行していて、研究の価値評価が単一化してしまう危機が、国際化の正体なのではないか。
特に人文系の学問は、価値の多様性が求められるべきだと思う。たとえば、アメリカの研究者には全く評価が得られなくて、日本でしか高い評価が得られない研究もやはり存在価値があるのではないか。しかし、海外では評価されていないからと切り捨てられてしまったら、一体人文系の学問はやっていけるのか。
国際化などという言葉に惑わされてはいけない。国際化と言うとき、その指している中身が何かきちんと見抜く必要がある。脳天気にグローバルだ、国際的だなどと叫んでいる人は眉唾ものだ。