アントニオ・ネグリ(杉村昌昭 訳)『ネグリ 生政治的自伝』

アントニオ・ネグリ(杉村昌昭 訳)『ネグリ 生政治的自伝――帰還』作品社
アルファベット順にキーワードを並べて、そのキーワードから思いつく事をネグリが語っていくという試み。ネグリがどんな生き方をしてきたのか、何を考えているのかよく分かって面白い。「マルチチュード」「生政治」とは何かを知るために。
興味を引いた箇所を引用しておこう。

――死の欲動といったものは存在するとお考えですか?
 存在すると思いますね。
――それはフロイトの大前提ですね。
 フロイトの前提は、神学的な前提です。欲望の欲動に対して死の欲動があるわけです。死の欲動というのは、ようするに限界のことです。というのは、存在は自らを全面的に表現することはできないからです。情念や欲望は自らを表現しようとしますが、そこに限界を見出し、その限界が逆説的にも情念や欲望の構築を可能にするとともに、絶えず乗り越えられるべきものとして現出するのです。したがって、後ろ向きの欲動はないのです。欲動は常に前方に向かって進む過程であり、限界に遭遇したときでも、そのことに変わりはありません。悪は存在しないと聖アウグスティヌスがきっぱり言っています。存在の存在論的悪は存在しないのです。(p.112)

最近、自分の中で少し気になって考えていたのが、例の大学生と高校生の家族殺傷事件。「ゴスロリ」とか「リストカット」とか、いかにもマスコミ受けしそうなキーワードが並んでいて、「サブカルチャーとしての殺人」といった雰囲気を漂わせている。
たとえば「WEB日記」、「リストカット」と並べると、単純に考えてこういう自己破壊的な表現は、「私を見て」「構って」的なものとして理解されるのだろうけど、そういうありきたりの答えではちょっと満足できないなあと感じている。だからといって、この事件が何か深い意味があるとも思わないが。
ただ、現代社会を考える一つの例として思うに、自己破壊、死への関心の強さ、というのは逆に言えば生に対する強さ、生の欲動の過剰さがあるのかなあと。つまり、「生きたい」という気持ちが強すぎてコントロール不可能になっているのかもしれない。生の過剰が、強い死への傾斜となって現れているのだろうか。
というのは、単に自分自身の身に置き換えてみて考えてみた結果なのだが、私は普段生の執着はそれほど強くないというか、けっこうどうでもよいと思っているが、と同時に死に関しても無関心というか執着がない。要するに「生きたい」とも「死にたい」とも思わない。なので、どうしてこれほどまでに「生」や「死」に強い執着心を持つのか理解ができないのだ。一体なぜなんだろう?